東海廣告は明治35年(1902)の創業だ。創業者は奥村哲次郎といい、中区古渡出身の士族だった。明治になってからは「東海新聞」という新聞を発行する言論人でありながら、名古屋市議会議員や愛知県議会議員も務めた政治家でもあった。
名古屋電燈(中部電力の前身の一つ)は、明治19年に設立し、明治22年に営業を開始した。主に尾張藩士が金録公債を元手に出資してできたサムライ会社だった。電柱広告は、東京でも明治20年代から扱い始められており、当時はニュービジネスだった。
奥村哲次郎がその電柱看板を扱うという商いを始めたのが、東海廣告の始まりだった。屋号は「東海電燈広告社」だった。創業の地は中区小林町(現・中区大須3丁目)で、万松寺交差点の付近(著者作成の明治43年の名古屋古地図を見ると、万松寺交差点付近に「東海新聞社」という文字を発見できる)。
東海廣告はその後発展し、南大津通6‐17に移転した。大正6年(1917)には合資会社になった。昭和14年(1939)には株式会社となった。奥村哲次郎が初代社長になった。株主の名簿には、名古屋鉄道を築き上げた有力者の藍川清成の名前も見える。
奥村哲次郎は子供が戦死したこともあって、後継者がいなかった。そこで縁戚だった高橋五十五が優秀だったので、五十五を後継者にした。五十五は、もともと金融機関に勤めていたが、昭和初期の金融恐慌で破綻してしまったこともあって、東海廣告に入社した。
五十五は、昭和24年に社長に就任した。時は終戦後の焼け野原時代で、ドッジラインによる大不況に見舞われていた。だが、五十五は金融機関時代に培った営業能力を生かし、地盤を築いていった。
五十五は、電柱広告を基盤とする営業地盤を築いた上で、昭和41年に、養子の公一氏に社長の座を譲り、自分は会長になった。
公一氏は高度成長の波に乗り、企業規模を拡大した。公一氏は平成9年(1997)に会長になり、長男の公比古氏が社長に就任した。
本社は、名古屋市千代田3‐4‐11。
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