日清戦争によって勝者となった日本、敗者となった中国。その差は大きかった。中国が眠れる獅子だとわかった欧米列強は、ハイエナのごとくに競い合って中国の分割を始めた。
特にロシアの侵略はひどかった。李鴻章などに賄賂を贈り、秘密協定である李鴻章―ロバノフ協定を結び、明治31年(1898)に遼東半島南端の旅順・大連を租借した。これで長年の夢であった不凍港を自分のものにした。そして、万里の長城以北と満州に勢力圏を拡大し、極東への野心を現実化していった。
この明治31年(1898)という年は、大隈重信が首相になり、最初の政党内閣が誕生した。
この初の政党内閣は「第一次大隈内閣」である。与党となった憲政党のうち、旧進歩党系の大隈を首相に、旧自由党系の板垣退助を内務大臣に迎えて組織したため、大隈の「隈」と板垣の「板」をとって隈板内閣ともいわれる。
しかし寄合所帯の憲政党内部では、旧進歩党系と旧自由党系の軋轢が強く、分裂騒ぎに発展して終わった。組閣は明治31年6月に行ったが、同年11月には辞任しているので、わずか4カ月だった。
この年は、首相が1年間に松方正義から伊藤博文、大隈重信、山縣有朋へと頻繁に替わり、極めて不安定な政局だった。
真之は、幸運にもアメリカとスペインの戦争を視察できた。観戦武官としてアメリカ艦隊に乗り、キューバのサンチアゴ軍港で行われた閉塞作戦をその目で見ることができた。真之はスペイン艦隊の残骸を詳しく調べもした。この体験は、やがて旅順港での閉塞作戦へとつながっていく。
真之は、この海戦の模様を詳細に記したレポートを海軍省に提出した。その正確さと適確さが評価された。
乙川綿布合資会社から豊田式動力織機による綿布が出荷された。乙川綿布合資会社は非常な勢いで発展していった。そして、佐吉が三井物産に認められ、無名の発明家から、一躍全国的に認められる機会がやってくるのである。
乙川綿布合資会社が作った綿布が、三井物産に辿り着いた。三井物産の担当者はそれを見るなり、眼を丸くした。10反が10反とも寸分に相違ない反物だったのだ。従来の人動力織機ではありえないことだった。三井物産は直ちに名古屋支店に命じて、乙川綿布合資会社を訪問した。そして佐吉の動力織機の存在が知られたのである。
三井物産が佐吉を発明家として認めたというニュースは全国を駆けめぐり、おかげで武平町工場には見学者がひっきりなしに来た。この頃に見学に来た主な人の名を列挙しよう。
井上馨、大隈重信、金子堅太郎、清浦奎吾などで当時のそうそうたるメンバーだった。中でも大隈は、多くの弟子を引き連れての訪問だった。「発明という仕事は外国人と知能の競争をすることじゃ。敗けをとらぬようにしっかりやってくれ給え」と激励し、従業員一同に金一封をくれた。
この頃、武平町工場で作った機械は、飛ぶように売れた。佐吉はこれでやっと生活基盤ができたので、乙川綿布合資会社の株式も全部石川藤八に渡し、自分は織機の発明に没頭した。 〔参考「はんだ郷土史研究会」のウェブサイト〕
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