明治30年(1897)、日本は19年ぶりに金本位制に復した。金本位制への復帰は、多額の金準備の確保が必要とされたが、日清戦争で得た2億3千万両(テール)という巨額の賠償金が金準備に充当された。
金本位制への移行は、経済に対し好ましい影響を及ぼした。第一に、価値の最も安定した金が価格基準に採用された結果、国内物価も安定し、商工業が着実に発展・成長しうる基盤が整備された。第二に、為替レートも安定し、貿易も順調に発展するようになった。第三に、これまで銀貨を基準に編成されていたため、銀価格変動の影響を強く受けていた財政も、そうした意図せざる変動から解放され、安定的なかたちで財政計画を編成できるようになった。 〔参考「日本銀行」のウェブサイト〕
日本は、清国から得た賠償金をもとに、金本位制を採用することになった。欧米列強はすでに金本位制だったので、日本もその仲間入りができた。
この金本位制の採用により、日本はようやく欧米と本格的に貿易ができるようになった。優秀な工作機械などの輸入は、これ以降のことである。
この明治29年(1896)は、日本が企業勃興期に入った年だった。その模様は、明治29年に行われた第一回農商工高等会議(経済諮問会議のようなもの)において、日清戦争前(明治27年)と、日清戦争後(明治29年)を比較したデータが披露された。
それによると、工業会社は508社から930社に。資本金の総額は6千万円から1億6千万円になった。大陸市場に進出した綿紡績業者の躍進が目立った。
日本が金本位制を確立した明治30年(1897)、「お金と恋」を題材にした小説が人気になり、多くの人が夢中になって読んだ。
それは尾崎紅葉の『金色夜叉』だった。明治30年1月1日から、読売新聞で連載された。あらすじを、ほんの少しだけ紹介する。
間貫一と宮、この2人が主人公である。2人はすでに結婚を約束していた間柄だった。だが、宮の前に富山忠嗣という金持ちの息子が現れる。
宮は、貫一を愛していたものの、玉の輿に乗ることを選んでしまう。貫一は、宮を問い詰めるが、宮は逃げてしまった。
「宮さん、お前は好くも僕を欺いたね」
宮は覚えず慄けり。
「病気と云つてここへ来たのは、富山と逢ふ為だらう」
「まあ、そればつかりは……」
「おおそればつかりは?」
「余り邪推が過ぎるわ、余り酷いわ。何ぼ何でも余り酷い事を」
泣入る宮を尻目に挂けて、
「お前でも酷いと云ふ事を知つてゐるのかい、宮さん。これが酷いと云つて泣く程なら、大馬鹿者にされた貫一は……貫一は……貫一は血の涙を流しても足りは為んよ」
(『金色夜叉』尾崎紅葉)
だが、宮にとって忠嗣との結婚生活は楽しいものではなかった。確かに優しい夫ではあったし、生活は裕福だったが、宮が求めていたものではなかった。
一方、失恋した貫一は、自暴自棄になった。お金のもつ力を思い知らされて、高利貸しの手下になった。宮は、年を重ねるにつれ、貫一に対する想いが再燃していった。そして2人は遂に再会してしまった。そして……。
このように、この小説は現代の日本人が読んでも本当に面白く、吸い込まれてしまう。金、金、金に左右される人間の運命や、男女の仲を見事に描いている。
日本銀行の名古屋支店は、明治30年(1897)3月に開設された。日銀としては6番目の支店だった。
場所は、栄町7丁目で、広小路に面していた。現在の住所では中区錦3‐25で、SMBCパーク栄になっている。
海軍省は、海外派遣士官の人選を行った。それぞれ飛び切りの秀才が選ばれた。アメリカ行きは真之が選ばれた。ロシア行きは、学業成績が劣っていたもののロシア語が堪能だったために広瀬武夫が選ばれた。
真之は、アメリカに留学した。幸運だったのは、マハンという著名な海軍士官の教えを直接受けることができたことだった。
佐吉は、同郷の林浅子と再婚した。佐吉が30歳、浅子が20歳だった。
禍福はどこから飛んでくるのかわからないものである。伊藤久八に裏切られた佐吉だったが、浅子という賢夫人を得て、さらに動力織機も完成した。その頃、急速に親しくなっていたのが石川藤八である。石川藤八は、半田の乙川の人で、商いで成功していた。農家に糸を持っていって織布させ、できた反物を買い取るのである。
佐吉と石川藤八が付き合いだしたのは、何時からなのか定かではないが、一説によると明治27年(1894)頃だという。石川藤八は佐吉の才能を見込み、物心両面で支援した。
石川藤八は、佐吉の糸繰返機の愛用者でもあった。石川藤八は名古屋の豊田商店までやってきた。石川藤八はまだ極秘扱いだった動力織機を見て、感嘆した。石川藤八はすぐ再び会いに来た。そして動力織機を動かして織布会社を興したいと言ってきた。話はトントン拍子で進み、両者で出資して明治30年に会社を設立した。それが乙川綿布合資会社である。
工場は現在の半田市乙川高良町で、石川藤八が建てた。木製動力機械は佐吉が作った。新工場には60台の木製動力織機が並んで壮観だった。木製動力織機という夢のような空想が、遂に現実のものとなったのだ。この時ほど、嬉しかったこともないだろう。
それまでのバッタン織機や糸繰返機は、どちらかといえば、改良工夫の世界だったのに比べ、この動力織機は独創的で堂々とした発明だった。従来は人力によって動かしてきた織機を、動力によって動かすことに成功し、織布というものが事業として成り立つことを可能にした。佐吉の発明家としての面目躍如だった。
佐吉は明治30年、武平町に300坪の自宅兼工場を建て、そこで動力織機の製造を本格的に始めた。その場所は現在の東区泉1‐22(現在は、ザ・センチュリーステイツというマンションが建っている)で、トヨタビル(現・桜通沿)の道を隔てて東側である。
浅子が名古屋に来てみると、店の経理は乱脈を極めていた。佐吉が幸運だったのは、この浅子が家政に巧みな才能の持ち主だったことだ。浅子は店の経理を一手に引き受けて、佐吉が発明に没頭できるようにした。経済の観念のなかった佐吉にとって、浅子は最高の補佐役になってくれた。
後の島崎工場時代には、賢夫人浅子のこんなエピソードが残っている。
島崎町の工場は、200人の従業員がいた。その昼食は、1日1人あたり13銭で外部に請け負わせていた。ところが浅子はその炊事を自分が買って出た。食費を切り詰めながらも、従前よりも美味な食事を提供することができたという。この内助の功のおかげで、月額60円の利益向上を実現して、佐吉の開発資金に充てた。
このように浅子もまた、佐吉の夢の実現に懸命だった。
浅子は、このように埃まみれになりながら「機屋のおかみ役」をこなした。そして、会社が大きくなると、おかみから奥様になり切り、佐吉が世界から注目を集めるようになると、それに相応しい賢夫人になっていった。控え目で礼儀正しい聡明な人物であった。
長男喜一郎は、呼び戻されて、武平町で両親とともに暮らすことになった。
こんなエピソードも残っている。喜一郎と愛子の2人には3時のおやつを与えるが、浅子はその際に、どこにあるのかわからないようにした。わざと隠したのだ。すると子供たちは家中を探し回ることになる。さて、今日はどこに隠してあるのか? 知恵比べだった。こんなことをするうちに、子供たちに探求心を植え付けた。また、子供たちが父親の研究を妨げないようにする、という配慮でもあった。
トヨタという大会社の始まりには、浅子という女性の貢献があったればこそだった。
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