名古屋のビジネスマンなら、酵素の専業メーカー・天野エンザイム(旧社名・天野製薬)という社名を聞いて、知らない向きは少ないだろう。では、天野エンザイムという社名を聞いて、誰を想像するだろうか? 「天野源博」という名前が出てくるのではなかろうか? 天野源博はすでに亡くなったが、名古屋の経済界を代表する著名人で〝ゲンパクさん〟として敬愛されていたものだ。だが、その〝ゲンパクさん〟の父親・源一は、もっとドエライ人だった。
天野エンザイムは“ゲンパクさん”の祖父にあたる天野圓之助が創業した。圓之助は明治2年(1869)、九之坪村(現・北名古屋市)で生まれた。自作農だったが、農業だけでは生活が厳しかったようだ。そこで明治32年から農業のかたわらで置き薬業(配置売薬)を始めた。これが創業だった。
その圓之助は明治38年9月10日に長男源一を授かった。この源一こそ、今日の天野エンザイムの基礎を築くことになる人物である。
源一は幼少期から家業を手伝った。そして大正9年(1920)には15歳で学校を卒業して、家業に従事した。源一は置き薬がいっぱい入った柳行李を背負う行商人として人生のスタートを切った。
源一は昭和3年(1928)には、置き薬の製造に着手した。「天野慈善堂大薬坊」という看板も掲げた。源一は、売る仕組みにも知恵を絞った。町村ごとに組織されていた青年団を有効に活用した。青年団を通じて各家庭に薬を売るのである。青年団にとっても活動資金を得られるので、互いにメリットがあった。
源一は、その後戦争で被害を受けることになる。だが、昭和21年に生産を再開するなど、立ち直りも早かった。敗戦とそれに伴うGHQの統治下において、源一が思い知らされたのは日米の技術格差だった。例えば、DDTの威力でノミやシラミがいなくなったのを見て、科学の力で日本は負けたのだと気付いた。
そこで源一は、とことん基礎から探究して商品を創り出すという起業家姿勢になった。着手したのは、ジアスターゼ(澱粉分解酵素)の製造だった。大曽根工場を建設して、昭和23年から量産を開始した。同じく23年には天野製薬株式会社を設立した。
源一は、さらなる新技術の開発に取り組んだ。微生物の培養によって酵素を創り出すというものだった。それをビオヂアスターゼという商標で売り出した。これにより微生物酵素のパイオニアになった。昭和30年代には、製薬原料メーカーとしての基盤を築いた。
源一の長男である源博は、昭和5年に誕生した。源博は昭和35年にアメリカ視察に赴き、36年には専務になって、陣頭指揮に立った。そして昭和46年に社長交代した。
源一は昭和63年に82歳で天寿を全うした。
現在は、源博の長男である源之氏が社長になっている。
本社は、名古屋市中区錦1‐2‐7。
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