この明治32年(1899)は、中国で義和団という組織が台頭してきた。外国人や中国人キリスト教信者はもとより、舶来物を扱う商店、はては鉄道・電線にいたるまで攻撃対象とし、次々と襲っていった。北京在住の外国人は、それぞれの公館でろう城し、救援を待った。
清朝は、義和団を鎮圧しようとしたが、徹底した弾圧には至らなかった。列強を苦々しく思っていた点は西太后以下も同じだった。
そこで翌年の明治33年には、義和団の乱へと発展していくことになる。
佐吉は、三井物産側の熱心な申し出に応えた。合名会社井桁商會という社名は、三井本家の家紋から来ていた。明治32年(1899)に設立。
これに伴い、工場は武平町から、名古屋市堀内町に移転拡張した。その場所は現在のミッドランドスクエア近辺だ。
経営の実権は三井が握り、佐吉は技師長という立場で、もっぱら発明に精進した。この頃の佐吉の発明で、特筆すべきなのは「送出装置」である。その発明は外国人を驚嘆させた。しばしば権利譲渡を求められた。
井桁商會は、旭日昇天の勢いであった。注文が舞い込むので、とても生産が間に合わなかった。そこで日本車輌製造(当時の社長は奥田正香)に製造を依頼した。
この明治32年は、佐吉に長女愛子が生まれた。
明治時代は、重要なことは何でも料亭で決めた。だから料亭は重要な〝会議場〟だった。名古屋には、河文を初めとする料亭がいくつもあった。それらは「魚之棚」と呼ばれた小田原町の筋に並んでいた。いわゆる「カミ」といわれる地域だった。逆に大須の方は「シモ」と呼ばれていた。財界のグループごとに利用する店が異なったので、どこに行くかで、派閥の色まで決められなかった。
魚之棚には、河文のほかには、魚半(百春楼)、近直、御納屋、大又、川喜などが並んでいた。
河文は、茶道の会席料理で知られ、全国的な知名度だった。尾張藩御用達商人の集まりである九日会は、河文で開かれていたので、その離れ座敷で名古屋の重要事項がそこで決められることが多かった。
魚半(百春楼)は、おたいという女将が派手好みで有名だった。奥田正香はここを贔屓にしていた。中央からの大臣や高官達が来名する場合は、よくここで泊まった。
御納屋は、徳川家の賄いをしていた家だった。
近直は、ここも徳川家の賄いをしていた家だった。
『碁盤割商家の暮らし』(山本花子 愛知県郷土資料刊行会)は、魚之棚の様子を次のように紹介している。
「その頃、料亭は魚之棚に集中していた。魚之棚の本町西は小田原町、本町東は西魚町という町名であったが、通称魚之棚といっていた。本町西の小田原町北側には河文、本町東の西魚町北側に魚半、さらに東の南側に御納屋、きん直があった」
「河文のある小田原町を曲がって、長者町に出ると河喜がある。なかなか広い構えの店であったが、宴会をする料亭というより、おいしい料理を家族連れで食べに行ったり、出前を取る店で、ここのだし巻きが有名であった」
「長者町には芸妓置屋が何軒も軒を連ね、花荒川とか新荒川という洒落た屋号の看板が掛かっており、その前を通ると三味線、太鼓の音が聞こえた。午前11時頃になると、金盥に入浴用具を入れて、長寿湯という町内の銭湯に行く姐さん、首だけ真っ白に白粉を付けて帰る姐さん、夕方になると、左手でお座敷着を持ち、袋に入った三味線を供人に持たせ、料亭に急ぐ姐さんたちともよく出会った」
「この置屋組合を盛栄連といった。碁盤割の界隈を上町といい、名古屋の芸妓組合の中でも、上町の盛栄連と呼ばれ、一番権威のある組合といわれた」
明治時代は、芸者のことを「芸妓」と呼んでいた。「猫」という異称で呼ぶこともあった。庶民の男にとっては、手の届かぬ高嶺の花であることは間違いなく、「猫」を揶揄した川柳が残っている。
「金銀見つけると猫じゃれ掛り」
「猫の開運親ぐるみ引き取られ」(芸妓が落籍され妾になること)
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