日本人は、明治35年(1902)1月、イギリスと同盟を結んだ。この同盟は、日本人を喜ばせた。世界最強の海軍を持つイギリスが、日本に対して対等な同盟を結ぶとは、それまでの感覚では想像できなかった。
日英同盟は、その後の日露戦争で日本が勝利する上で大きな意味を持つことになる。イギリスは、諜報活動やロシア海軍へのサボタージュ等で日本を大いに助けた。バルチック艦隊が大航海を経て日本海までやって来る過程で必要になる石炭の提供を拒否したことも、ロシアにとって痛手であった。
また、イギリスは、戦艦などの最先端兵器を日本に売却した。日本海海戦で活躍した戦艦三笠など、主力艦はほぼイギリス製だった。
東北は、八甲田山雪中行軍遭難事件のほかにも大問題に襲われていた。この明治35年(1902)末から翌36年にかけて大飢饉に襲われた。特に青森県で被害が大きかった。「旱魃5分作。7月中旬より8月中旬にわたり降雨陰冷。9月末暴風雨あり」と記されている。
なお、東北では、明治35年に続いて、38年、39年も凶作になった。そのきっかけとなったのは、初夏から始まる異常低温にあった。米の収穫量は、平年の3割から5割程度のダウンに陥った。
海軍大学校に戦術講座が設けられたのは、明治35年だった。真之は、海軍大学校の戦術教官となった。真之はそこでアメリカで学んだ兵棋演習をした。各種軍艦を並べ、敵味方に分かれて作戦の演習をするわけである。真之の戦術講義は、不朽といわれるほどの名講義だった。
聴講生の中には、八代六郎もいた。八代六郎は、実は真之が兵学校だった頃の教官だったが、真之の授業を熱心に聴きに来た。八代は疑問に思うところは容赦なく質問した。そこで真之と八代が喧嘩のような議論を重ねた。だが、八代は翌日再びやってきて「秋山、君のほうが正しかった」と教室で大きな声で謝ったという。「昨夜寝ずに考えた結果だ」ともいった。
八代六郎は愛知県が産んだ著名な海軍軍人だ。八代は、安政7年(1860)に丹羽郡楽田村(現・犬山市)で生まれた。愛知英語学校を経て海軍兵学校に入学した。
明治14年、兵学校を卒業。海軍参謀部に属し、この期間にウラジオストクに出張している。この実績を買われ、明治28年から31年までの3年間、ロシア公使館附武官を勤め、対ロシアの諜報活動に勤めた。
真之は、八代六郎から縁談を持ちかけられた。相手は、宮内省御用掛・稲生真履の三女・季子だった。
子規は5月5日から、日本新聞で「病床六尺」の連載を開始した。だが、9月19日に永眠してしまった。享年35歳。辞世の句は「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」。
真之は横須賀に出張中で、電車で隣席に座った人が持っていた新聞の訃報でそれを知った。
佐吉は元の武平町工場に戻り、織布業を始めていたが、その事業は順調に発展していった。滝兵右衛門の西新町工場を借り入れ、武平町と両方で130台の織機を稼働させた。
喜一郎はこの年、名古屋市立共同関治小学校から高丘尋常小学校(現・東桜小学校)に転校した。高丘尋常小学校は武平町の近くで、教育環境が良かった。
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