名古屋の街を歩くと、サカツコーポレーションの社名の入ったトラックをよく見かける。錦3丁目の飲食街では、約25%の販売シェアがあるというから凄い。
サカツコーポレーションの創業は、明治29年(1896)だ。恒川吉衛門が名古屋市中区丸田町で創業した。その店は、その子の恒川正芳が継いだ。その恒川正芳の娘と結婚したのが牧野輝敏だ。この輝敏は大変なやり手で、サカツコーポレーション(当時の社名で酒津屋)を大発展させた。
輝敏は明治40年に尾西で生まれた。姉の嫁ぎ先であったこともあり、若くして名古屋駅近辺の酒屋に丁稚奉公に入った。そして、恒川家が営んでいた酒店を継ぐ形で、昭和4年(1929)に独立開業した。この時に店名を酒津屋とした。だから実質的には、創業者だといえるかもしれない。
輝敏は、酒屋の商いに専念していたが、戦争になって出征し、ガダルカナルで生死をさまよったこともあった。戦争が終わると、持ち前の商魂を発揮するようになる。輝敏が着目したのは、レモンやオレンジの輸入や、舶来酒の輸入だった。外貨不足の時代だっただけに、その輸入の承認を得るのは困難だったが、輝敏は八方手を尽くして承認を得た。当時は舶来酒など高嶺の花だっただけに、庶民には手の届かない代物だった。それを扱うことが発展の基礎を築いた。
輝敏は、先見の明があり、新機軸を次々に打ち出した。昭和33年には、郵政省により簡易無線の免許を取得し業界初の無線車を使用するようになり、実績を一段と伸ばした。
輝敏に関しては、色々なエピソードが残っている。「お祖父さんは、とにかく年がら年中仕事をしていた。入院した時も、無線の大きな機械を病院に持ち込んだ。そして『おいバナナはどうなった』と病院から会社に問い合わせた。それにすぐ答えられないと怒鳴られた」という。何しろ怖いお祖父さんだったようだ。
輝敏は、昭和54年に72歳で亡くなった。輝敏と妻はるとの間には、7人の子供がいた。吉晃(三男)が社長に就任し、平成3年(1991)には純三(四男)が社長に就任した。
純三は、積極的な経営を推進して、業績を伸ばした。社長就任とともに、社名を酒津屋からサカツコーポレーションに変更した。また、新社屋を名古屋市中区千代田一丁目16‐1で完成した。平成5年から小売業にも進出した。そして、中部地方を中心に、支店も開設した。それによって売上高は大きく伸びた。平成23年度の年商は165億円で、愛知県下最大手の地位は揺るがない。
この純三は平成18年に急死してしまったので、純三の長男である充宏氏が社長に就任して現在に至っている。
本社は、名古屋市中区千代田1‐16‐1。
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