震災が起きた時、豊田佐吉は上海にいた。「大震災発生! 箱根以東は全滅。火災は全市で起る」という情報が入電された時、佐吉は上海の自邸で西川秋次と食事中だった。
佐吉はしばらくじっと考え込んでいたが、いきなり「上海ではまだ救済や義援金の募集の話はないか」と言った。そして、「よし、それなら俺は名古屋でも出すが、取りあえず1万円出そう。こんなことは早いがよい。すぐ民団へ申し込んでもらう」と、言い放った。
名古屋では、佐吉の息子の喜一郎の安否がわからず大騒動になっていた。この震災の当日、喜一郎は東京にいた。震災の一報が入っても、通信網が途絶えて正確な情報が得られない中で、デマが飛び交った。喜一郎の様子は、愛知まで伝わるはずもなく、東京に使いを出すなど八方に手を尽くして、その安否を確認するために豊田紡織の人々が躍起となった。その最中に、喜一郎は泥だらけになって中央線大曽根駅に帰って来た。
一同は胸をなでおろした。初の出産があと2カ月後に迫っていた身重の二十子も、ほっとした。
また、震災という大惨事があった年ではあったが、豊田紡織は11月に、愛知県刈谷町で自動織機の試験のための工場を設立した。佐吉が刈谷に工場を創設したのは、自動織機の営業的試験の完全を期するためであった。「完全なる営業的試験を行はざれば真価を世に問ふべからず」という発明家としての牢固たる信念の所産だった。
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