東区の清水口を南の方向に向かった白壁三丁目に株式会社大清という会社がある。大清も大正時代から続く老舗だ。
大清の創業者は、大藪清吾(せいご)といい、その名を取って社名になっている。清吾は、明治29年(1896)に犬山で生まれた。8人兄弟の5番目の子供だった。家は貧しい商家だったが、教育熱心で、兄弟の中には大学教授になる者も出た。
清吾は、7歳にして静岡のお寺に預けられた。大きくなり、お寺を出てからは東京の商店に丁稚奉公で入った。奉公を終えてから一時期兄の商売を手伝っていたが、結婚を機に独立して創業した。
その清吾が創業時に書き込んだ直筆が残っている。「大正12年8月開業、精神一到何事成らざらん」。これは手提げ金庫のお札を入れたりする桐箱の裏に書き込んだ文字だ。その時、弱冠27歳。青雲の志を抱いての船出だった。
創業の地は名古屋の東区東外堀町2丁目13番地(旧住所)で、現在は市政資料館南という交差点のすぐ北側にあった。店の前には瀬戸電が走っていた。
創業当時は、機械工具・管工機材などを売っていた。清吾は機械が好きで、陶磁器に関する機械を発明して実用新案を取ったこともあった。店は順調に発展し、昭和16年(1931)には、店員が10人いるまでになっていた。戦争中には大同特殊鋼などにバルブや継ぎ手を納品し、業績を伸ばした。
清吾の人柄を感じさせるエピソードが残っている。「謹厳実直で、凛として威厳があった。仕事が終わると必ず着物に着替え、毎晩、今日の仕事は今日中にそろばんをはじいて帳面を付けた」「おしゃれで、いつも蝶ネクタイを付けていた。帽子やズボンの裾も妻がブラシで綺麗にしていた」「成功した後も、誰に対してもきちんとしたお辞儀をするので、周囲からは『なんて腰の低い方だろう』といわれていた」「会社の2階は住まいで、社員と寝起きを共にしていた。食事は、朝昼晩の三食とも社員に食べさせた。社員からは『大将』と慕われていた」
清吾には、5男2女の子がいた。長男は早世した。次男は、シベリア抑留時代のおかげで体調を壊して亡くなった。三男晃は海軍兵学校卒の秀才だった。三男が海軍兵学校に入った時は、誇らしく、日本赤十字に1万円を寄付して話題になった。当時のお金で1万円というのは大金だった。だが、特攻隊として若い命を散らしてしまった。
戦後はモノ不足の中で、払い下げの物資さえ入手すれば商いになった。戦争で店が被災しなかったことが幸いした。
清吾は、扱い商品を管工機材に特化するようになった。本社は昭和37年、現在の名古屋市東区白壁4ノ95に移転した。愛知県管工機材商業組合の初代理事長になった。だが昭和41年に亡くなった。
清吾亡き後、大清も承継が順調にいかずにいろいろと変遷があった。そこで登場するのが育三だ。育三は、5男ということもあり、まさか自分が後継者になるとは想像もしていなかった。早稲田大学を昭和31年に卒業して名古屋日産に就職した。
社長就任は、昭和41年だった。育三がまだ33歳という若さだったこともあり、社員の中には見切って退社する者が相次いだ。社員は20人いたが、どんどん減ってしまい、とうとう7、8人にまでなってしまった。このように育三は、承継の難しさを思い知らされた。10年ばかりは悪戦苦闘の日々が続いた。だが、必ず挽回してみせると心に誓った。育三は当時のことを「会社が残るかどうかの一番の正念場だった」と振り返る。古参社員が去る一方で、育三を支えてくれる人物もいた。清吾の弟の展弘は、会社に残って、育三を支えてくれた。また経理面では小野川藤吉という責任者が金庫番になってガッチリと守ってくれた。
育三は、取扱商品は、社長就任時には機械工具もあったが、これからは管工機材(バルブ、継ぎ手などパイプに関するもの)だと考え、特化した。管工機材は、目立たない商品だが、工場の心臓部で必要になるもので、必要不可欠だと考えたからだ。
育三は、70歳になった時に社長交替をした。現社長の淳一氏は、娘婿にあたる。堅実な経営は、しっかり受け継がれている。そして淳一氏の長男豊大氏は社会人になったばかりだが、将来の後継者である。「1位にならなくても良い。地味で堅実に続けること。できることをコツコツとやっていきたい」という育三の考え方は、脈々と受け継がれている。
育三は平成26年に亡くなった。葬儀委員長は岡谷鋼機社長で名古屋商工会議所会頭の岡谷篤一が務めた。
本社所在地は、名古屋市東区白壁4‐95である。
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