岡崎市のナンブ(前社名・南部薬品)といえば、薬局から始まり医療・福祉の総合企業に発展したところだが、その歴史は大正時代にさかのぼる。
南部薬品の創業者は、南部吟治郎という。吟治郎は明治31年(1898)10月30日、大浜町(碧南市)で、父角谷百太郎、母さいの間に生まれた。4人兄弟の次男だった。家業は炭屋で、片手間にコンロも作っていた。零細な家内工業で、貧しかった。
吟治郎は7歳の時、岡崎の南部家に養子として引き取られた。養父筆次郎、養母のとだった。南部家は、岡崎の八帖町往還通で一文駄菓子屋を営んでいた。筆次郎夫婦は、吟治郎を可愛がり、愛情を注いだ。尋常高等小学校を終えると、町立の岡崎商業学校に進ませた。
吟治郎は、16歳で商業学校を中退して、職探しをした。綿糸工場で働いていた時に、経営者から「これからの時代は公的資格をもっている者がリーダーになる」と聞かされた。その一言で薬剤師を目指すことを決意した。綿糸工場で働きながらの苦学だった。
吟治郎は大正10年(1921)、薬剤師試験に合格した。苦節7年だった。養父母は、合格を喜び、誇らしげに近所に触れ回った。試験に合格した吟治郎は、当時、岡崎で大手だった薬局に丁稚奉公に入った。だが、すぐ辞めた。次に合資会社荒川長太郎商店に入ったが、3日で辞めた。そこで自営の道を選ぶことになった。ナンブ薬局は、大正12年3月、岡崎市内の田町28番地で開業した。同時に恋人だった、きよと結婚した。
店は繁盛し、昭和10年(1935)に、田町19番地で建物付きの土地を購入して、改装して開店した。だが、戦時色が強まり、昭和14年に薬品の配給統制が実施された。
二代目の勉は、吟治郎の子として昭和7年12月17日に誕生。吟治郎には、2人の男子と、3人の女子がいた。勉は愛知県立岡崎高等学校(岡崎高校)を出て、愛知大学に入学した。
勉は昭和29年、愛知大学を卒業するとともに中北薬品に入社した。最初に配属されたのは静岡の馬淵出張所で、病院部門の営業だった。勉は持ち前の負けん気と粘りで大いに売りまくった。勉は昭和32年、中北薬品を退職した。抜群の営業成績だったので、慰留に慰留を重ねられたが、円満退社した。
勉が入社したことも一つのきっかけになり、昭和33年に個人商店を改組して、南部薬品株式会社とした。資本金150万円。そして昭和34年には愛知県医薬品卸組合に加入し、病院に医薬品を売る卸売業を始めた。勉は薬品卸として業績を伸ばした。
家業の発展を見届けながら、創業者の吟治郎は昭和52年に永眠した。79歳だった。勉は南部薬品を承継した。
三代目で現社長の淳氏は、勉の子だ。淳氏は、実はフィギュアスケートの選手だった。小学校の頃から始め、昭和53年には世界ジュニア選手権(フランス)にも出場したほど。アスリートとしての夢を抱いていたが、親の意向をくんで、後継者としての道を歩むことにした。岡崎高校を卒業して岐阜薬科大学に進学した。
淳氏は平成13年(2001)に社長に就任するとともに、営業構造の変革に取り組んだ。創業の店舗であるナンブ薬局を閉鎖した。医科向けの医薬品卸から撤退した。そして「調剤」と「介護」という新分野に進出した。平成17年に高齢者複合施設・ハートケアヴィレッジなんぶの郷(有料老人ホーム)を開設した。
平成26年には、社名を南部薬品からナンブに変更した。
本社所在地は、愛知県岡崎市戸崎町字牛転10‐91である。
Copyright(c) 2013 (株)北見式賃金研究所/社会保険労務士法人北見事務所 All Rights Reserved
〒452-0805 愛知県名古屋市西区市場木町478番地
TEL 052-505-6237 FAX 052-505-6274