大震災が発生する直前の名古屋は、銀行取り付け騒ぎが起きていた。この年の7月11日には、名古屋でも農産銀行の重役背任告訴記事を契機として、取り付け騒ぎが始まった。
◆7月15日、「新愛知新聞」は、側杖を食った尾三銀行勝川支店取り付けのことを詳細に取り上げた。
◆7月16日、日曜明けのこの日、尾三銀行本店も、取り付けを受け、名古屋経済界は動揺した。
◆7月18日、本店が栄町にあった尾三銀行が、営業を2週間休業すると発表した。尾三銀行は、休業に当たり次のような立看板を出した。
「日本銀行は進んで愛知、明治、名古屋、村瀬の四銀行と協議を遂げ当行支払資金の供給を快諾せられたるに就きご安心を乞ふ」
尾三銀行がこの立看板を出したのは16・17の両日にわたって取り付けを受けた後の窮策であった。特に日置支店の取り付けは、最も激しく、夜9時過ぎとなるも、預金者は行内を去らず、ついには手当たり次第に物を投げつける者もあった。
◆7月19日、取り付け騒ぎは丹葉銀行に飛び火した。
◆7月21日、豊橋市の明治、愛知、名古屋の各銀行支店にも波及した。
◆7月23日、名古屋市内各銀行が取り付けに遭った。
◆7月24日、銀行取り付け騒ぎは鎮静したが、名古屋経済界にはなお不安感が漂った。日本銀行名古屋支店の貸し出しは、14日から急増を続け、24日には9千600万円の巨額を示し、同支店開設以来の新記録となった。
そんな状況の中で、ついに運命の日となる9月1日が襲来した。まさにタイミングが悪かった。
「大震災が発生した」という知らせを受けて、名古屋でも義援金の募集が開始された。9月3日、愛知県・名古屋市・名古屋商業会議所の主唱により、新愛知・名古屋各新聞社の賛助で開始された。
被災した人々が名古屋に来ることも多かった。名古屋市に避難した罹災者は、11月の調査によると、1万2千人、世帯数2千500軒にのぼった。
首都圏の人々は、震災で辛酸を嘗めた。だが、その震災は復興特需を生むことにもなった。「9月中旬頃から12月にかけ、バラック建築の進行するや、建築材料をはじめ各種物資の需要は盛んに起り、建築関係の諸職人の賃金は高騰し、関西方面の商工業者は、久しく庫中に残蔵して苦しんだ在荷を意外に儲けて処分した」とも伝えられている。
また、名古屋の株式市況は、大正12年(1923)の年初こそ金融の緩和から諸株堅調を示したが、9月1日の震災のおかげで、名古屋株式取引所は3日から7日まで臨時休会となり、8日再開後も不安人気から諸株大崩落となった。しかし、その後政府の経済安定策、11月東京市場の再開から活況となった。
また、この年の1月に名古屋株式取引所理事長に下出民義が就任した。そして、翌年の大正13年には、12月に高橋彦次郎が再び理事長に返り咲くことになる。〔参考文献『名古屋証券取引所三十年史』〕
Copyright(c) 2013 (株)北見式賃金研究所/社会保険労務士法人北見事務所 All Rights Reserved
〒452-0805 愛知県名古屋市西区市場木町478番地
TEL 052-505-6237 FAX 052-505-6274