西川秋次は、豊田佐吉の分身とも言われた豊田の大番頭である。佐吉が上海への進出を企てた時、周囲の多くの人は反対した。
だが、秋次は「皆さんが反対されても、大将が国を思い、豊田の事業の行く末を考えた上で決めたことです。ぼくはたとえ、それが炎の道であっても、大将のお供をする覚悟でいます。どうか皆さんも大将の気持ちを汲んで、従来どおり大将の考えを尊重していただきたい」と言い切った。(『小説西川秋次の生涯:発明王豊田佐吉に仕えて』)
その佐吉も昭和5年(1930)に亡くなった。秋次の真骨頂は、むしろ佐吉亡き後だったかもしれない。
佐吉は「私は織機の発明で国に貢献した。喜一郎、お前は自動車をやれ」と遺言のように言い残して去った。息子の喜一郎はその遺言を守るかのように、自動車事業にまい進した。だが、自動車開発には莫大な資金が必要で、三井や住友といった財閥でさえ二の足を踏んだ。当然、豊田の中では懸念する向きが多く、開発資金を出し渋ることが多かった。
自動車事業にまい進する喜一郎と、慎重派の利三郎。その対立は昭和7年、8年にかけて激しくなった。その対立を遠くで眺めていたのが中国責任者の西川秋次だった。
秋次は、上海から帰国するなり、幹部陣を集めて次のように言い放った。
「大大将(佐吉)の遺志を継ぐのに何の遠慮が要りましょう。喜一郎さん、お金ならこの不肖西川がいくらでも調達してみせます。大大将の経歴に恥じない仕事をしてください」
秋次はこれ以降、眉をひそめる豊田本社の意向を無視して、上海から巨額の資金を喜一郎に送り続けた。この秋次の決断がなければ、自動車開発はできなかった。
秋次は明治14年(1881)、愛知県渥美郡二川町(現・豊橋市三弥町)に生まれた。西川家は自作農で比較的裕福な家だった。尋常高等小学校時代は、神童と呼ばれるほど秀才だった。自作農とはいえ、余裕のなかった秋次は、官費で進学できた愛知県第一師範学校(名古屋)に入学し、寮に入った。
その師範学校に入学した際に、親から「名古屋には豊田さんという親戚があるから顔を出しなさい」と言われた。秋次は佐吉の妻浅子の親戚に当たった。
その当時の佐吉は、独立開業したばかりで、名古屋の朝日町(現・中区錦3‐6)で豊田商会という店を構えていた。
秋次は、佐吉という人物と出会い、その人柄や人生観、発明にかける情熱に感銘を受けた。また、喜一郎や愛子とも兄弟同然に親しく付き合った。
秋次は佐吉の勧めに従って、師範学校を卒業すると、義務年限だけ学校教師となり、その後に東京高等工業学校(現・東京工業大学)紡織科に入学した。そこを卒業したのは明治42年で、すぐ佐吉のもとに帰ってきた。
佐吉は明治43年5月にアメリカ視察に旅立った。この時に連れて行ったのが秋次だった。渡米前に激励に駆け付け、壮行会を開いてくれたのは、石川藤八と服部兼三郎だった。
宴の終わりになると、藤八は佐吉の手を取り、何度も励ましたという。そして秋次の方を見るなり「西川君、頼む」と言った。当時のことであり、アメリカに行くのは大きな覚悟と決意の要ることであった。
佐吉は、アメリカを視察した後、ヨーロッパまで回った。だが、秋次はなおもアメリカに止まり、研究を続けた。紡績事業に必要になる綿花の選び方、綿糸の品質の検査方法など徹底的に調べた。
秋次は、大正元年(1912)に帰国した。横浜には佐吉の弟の平吉と佐助が迎えに来てくれた。既に栄生では豊田自動織布ができていたが、まだ赤字経営であるとも聞かされた。秋次はあらためて豊田自動織布に入社した。
秋次は早速背広を脱ぎ捨てて菜っ葉服になり、機械の修理や、帳簿、外交を一手に引き受け、自転車で飛び回るようになった。
佐吉が上海で工場をつくると、秋次はその責任者になり、以後30年間も駐在した。それ以来、上海の紡績事業で稼いだ収益は名古屋へ送られ、G型自動織機の開発と織機事業拡大の資金として生かされた。
戦後、秋次は昭和24年に帰国した。そして昭和38年に逝去した。83歳だった。
墓は日泰寺にあり、豊田家の墓地の前である。生涯を豊田家のために尽くした秋次は、死んでなお、豊田家の墓を守るがごとく葬られている。〔参考文献『小説西川秋次の生涯:発明王豊田佐吉に仕えて』〕
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