いとう呉服店は、新たな飛躍を願って店名を「松坂屋」に統一し、大正14年(1925)5月に南大津町3丁目に新店舗を構えて営業を開始した。地上、地下合わせて7階建て、延床面積6千坪の大店舗は、名古屋に本格的な百貨店時代が到来したことを告げるものであった。
いとう呉服店は経営制度の基礎固めを行い、これまでの本支店制の代わりに名古屋・東京・京都の3営業部制を導入し、その統括機関を名古屋本社に設けた。
明治40年代、市内にはいとう呉服店をはじめ4つの大きな呉服店があった。十一屋、桔梗屋、下むら(大丸屋)が他の3呉服店であり、このうち十一屋呉服店のみが百貨店(丸栄)として発展する道を歩み、大正4年11月に栄町に進出している。下むら(大丸屋)は名古屋から撤退した。
大正時代の名古屋の盛り場は広小路が代表的で、西納屋橋から東へ進んで栄町7丁目までを指していた。広小路筋の中央には、市電が走っていた。チンチン電車である。
道路の両側にさまざまな店が並んで、「広ブラ」の客を引きつけた。市民が楽しみにしていたのが喫茶店で、代表的な店としては広小路通の「明治」、筋向かいにある大衆的な喫茶店「森永」、さらには「不二家」「敷島ホール」、大津町に入って「松川屋」「ライオン」などがあった。
また、喫茶店のほかに、すし屋、うどん屋、どて焼き、かき氷などの飲食店や、果物屋などがあった。バナナ専門のたたき売りもあった。広小路は、市民の憩いの場だった。
広小路の次の歓楽街は大須で、寺院・小売店のほか寄席・映画館・土産物店・遊技場・露店が所狭しとひしめいていた。
名古屋市内で自動車が見られるようになったのは、我が国に初めて自動車が輸入された明治32年(1899)頃とされ、奥田正香が二人乗りのスチームエンジンカー(蒸気自動車)を使用した。だが、スチームエンジンカーの性能はあまり芳しいものとはいえず、実用性に乏しかった。
代わって登場したのがガソリン自動車で、名古屋市では日本陶器の大倉和親が自家用車として使用したのをもって嚆矢とされる。その後一部の人々や企業が自動車を自家用車として使用するようになるが、しょせんは高価格のぜいたく品の域をでるものではなく、一般大衆にとっては縁遠い存在であった。
しかし、市勢の発展に伴う交通量の増大、それに道路の改良や拡張などを背景として、自動車が徐々に普及し始めた。アメリカの自動車工業が発達して低廉で丈夫な自動車が輸入できるようになったことが普及を促し、自家用ばかりでなく営業用に自動車が利用されるようになった。〔参考文献『碁盤割商家の暮らし』〕
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