写真をご覧いただきたい。これは「鞴(ふいご)」である。鞴とは、金属の加工、精錬などで高温が必要となる場合に、燃焼を促進する目的で使われる、昔鍛冶屋が使っていたものである。創業者の堀田清重が明治44年(1911)、20歳のときに年季奉公明けに作ったものだ。これは、会社の資料室のガラスケースの中に〝社宝〟として飾ってある。顔写真は清重である。
清重は明治24年の生まれ。明治の末に兵役を終え、愛知時計や熱田の兵器工廠などで働き、旋盤工として腕を磨いた。そのうえで大正14年(1925)4月、旋盤1台で堀田鉄工所を創業した。昭和11年(1936)には、山田西町1丁目(現・本社住所)で、工場兼自宅を建てるまでになった。当時の仕事は、縄ない機、脱穀機など農機具の部品製造だった。だが、戦時色が強くなり、民需品は材料の配給が減ったことにより、やむなく休業に追い込まれた。
戦争では、幸運にも空襲で燃えることはなかったため、戦後はすぐ再開することができた。また、長男の正夫が兵役につかずに無事だったことも幸運だった。正夫は大正9年生まれで、昭和21年4月、27歳で代表者に就任した。
当時は、辺り一面の焼け野原である。問題は何をするかであった。製粉業を営もうとして、手に入りにくかったモーターを入手したが、商売にはならず止めた。そこで、やはり元の農機具の部品製造を始めた。そして、陶磁器の輸出で需要が拡大していた木毛製造機(もくめん=木で作った緩衝材)も作るようになった。
悪戦苦闘の試行錯誤を繰り返した挙げ句、たどり着いたのはカメラの部品製造だった。正夫は少年時代からカメラ好きで、子供の頃からの憧れが仕事になった。そして、幸運だったのは昭和30年代になってから車関係の部品製造に乗り出したことだ。自動車業界を相手にした部品製造業という現在の業務の基礎がここで出来上がった。
昭和42年には、改組して株式会社中部精機製作所になった。正夫は自動車産業の発展を背景にして、設備投資を断行して業績を伸ばした。清重は、社業の発展ぶりを見守りながら、昭和43年に亡くなった。
平成3年(1991)には、次の世代交代期を迎え、正夫の長男の裕氏が社長になった。細径の棒材を切削加工するという得意な仕事に特化してきたが、作るものは時代によって大きく異なってきた。現在では、ディーゼル噴射ポンプ小物部品がメインになっていて、最新の分野である燃料電池部品加工にも携わるようになった。いたずらに企業規模の拡大を目指すこともなく、現在の従業員は100人前後だ。
裕氏は「当社はいわゆる鍛冶屋として、モノ創りを愚直に続けてきた。これからも、日本人によるモノ創りにこだわっていきたい」と語っている。
筆者は、続く会社の特長として「大きくなり過ぎないこと」を挙げているが、その見本である。
本社所在地は、名古屋市北区山田2‐7‐4である。
Copyright(c) 2013 (株)北見式賃金研究所/社会保険労務士法人北見事務所 All Rights Reserved
〒452-0805 愛知県名古屋市西区市場木町478番地
TEL 052-505-6237 FAX 052-505-6274