古紙回収という仕事は、今でこそ資源リサイクルということで評価されているが、それを100年近く前から先取りしてきたのがエス・エヌ・テーだ。
創業者は篠田太吉という。太吉は明治27年(1894)に岐阜羽島の農家に生まれ、東京の紙商に奉公に上がった。大正5年(1916)に創業したが、この頃は第一次世界大戦の影響で欧州の産業が疲弊して洋紙などの輸入が減少した時で、紙を国内で調達するニーズがあり、紙需要が増えた。紙業界は好況にわき、多くの紙製造業や洋紙商が創業した。チャレンジ精神旺盛な太吉は、製紙業を志したが、何らかの事情でうまくいかなかったらしい。このチャレンジは遂に成功をもたらした。太吉は、古紙回収業に着目し、和紙の反古(ほご)紙などを中心に状況に応じて機敏に対応した。製紙業は装置産業だから大手でなければ残りにくいが、古紙回収業は手間がかかり大手が参入しにくい業界で、中小企業に適していた。
太吉は昭和17年(1942)には全国規模の同業者統制組合の名古屋所長に選ばれた。その際の出資金は1万円だった。当時は千円で家が建つ時代だったから、財力の程がうかがわれる。
太吉には8人の子供がいた。後を継いで2代目になったのは次男の武夫だ。武夫は大正9年生まれ。武夫は昭和16年に陸軍第3師団歩兵第6連隊に入営し、満州へ出征、昭和20年10月に復員した。
武夫が復員できたことが、よほどうれしかったらしい。武夫は昭和22年に結婚したが、太吉は、結婚披露宴を堀川沿いの料亭「得月楼」(平成26年〈2014〉に焼失した「鳥久」)で盛大に挙げさせた。戦後の食糧不足の時代にである。
太吉は、昭和21年にはオート三輪車を購入した。その三輪車を運転する武夫の写真も残っている。これは定かではないが、愛知時計電機から分かれ出た新愛知起業(愛知機械工業の前身)が製造した「ヂャイアント号」かもしれない。「ヂャイアント号」は昭和22年から製造されたもので、当時としては家一軒分に相当する財産だった。それまでは大八車や馬車を使っていた。
太吉は戦後、製紙原料(古紙)業として成功した。その後を受けた武夫は、紙の卸売を開始し、大量の紙を使用する新聞社を開拓した。
武夫は、温厚で柔らかな物腰で、口数の少ない人だった。特に、取引先に対しては頭が低く、辛抱強く仕事に真摯に取り組み紙業界内での信用を確固たるものにした。武夫は、①製紙メーカーから仕入れて新聞社に紙を納める、②新聞社から出た古紙を回収する、③回収した古紙を処理して、製紙メーカーに納める(リサイクル)、そして、新聞記者用の原稿用紙、八百屋・魚屋などの包装用紙に断裁加工(リユース)―というサイクルを実現した。名古屋市内の新聞社といっても数社しかないのだから、ニッチな市場を狙ったものだ。
太吉は、家業の盛運を見届けたうえで、昭和51年に大往生した。
平成3年に3代目社長に就任したのは、武夫の長男の峰夫氏(現・社長)だ。峰夫社長は平成3年に社名を変更した。大正5年に「篠田商店」として創業し、昭和28年に「篠田紙工株式会社」となっていたが、それを「株式会社エス・エヌ・テー」に変えることで心機一転を図った。平成11年からは、中日新聞社の販売店とタイアップして、各家庭を回って新聞紙を回収する戸別回収という新規事業を開始した。
同社の従業員数は、パートタイマーを含めて30人という規模で、事業場も本社工場1カ所のみ。峰夫社長は「紙のリサイクルは地味だが、なくならない仕事だ。その本業に徹したい。身の丈に合った経営をコツコツ続けたい」と語る。
筆者は、続く経営の秘訣の一つとして「大きくしないで地味な仕事を続ける」があると考えているが、その見本をみたような気がした。
本社所在地は、名古屋市中区三の丸1‐10‐28である。
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