第4部 江戸時代後期の部/その5、長州藩 藩政改革に着手

その時、名古屋商人は

この頃創業した会社・豊島

豊島半七会長豊島の基盤を築いた豊島半七会長

 一宮の繊維業界の雄・豊島は、天保12年(1841)の創業。初代半七が「綿屋半七」の名で、一宮において綿花の仲買人を始めたのが始まりだ。初代半七は、明治維新を迎えた頃には大きな糸商として発展し、「山一商店」という暖簾を出すまでになった。

 初代半七は、明治元年(1868)に家督を長男に譲り、二代目半七を名乗らせた。二代目半七は、当時唐糸と呼ばれたイギリス製の糸を輸入し、国内に販路を開拓した。横浜で糸を大量に買い付け、武蔵丸という帆船に積み込んで自分も船に乗り、名古屋に向けて帆を上げた。だが、清水港の近くで武蔵丸は船倉から火を出し、一瞬にして糸を焼失してしまった。乗組員の命だけが助かった。

 二代目半七は、馬を飛ばして一宮の店に帰り着いた。そして年老いた初代に手を付いて、糸を焼失したことを報告した。しかし、初代はその時少しも動じなかった。そして、逆に息子を励ました。いまからすぐにでも横浜に行って、代金を全部支払ってくるようにと言い付けたのだ。

 船火事で、一時は山一の暖簾もこれまでかと噂されたものだが、危機に際して取った初代の誠意と努力が英国商館を感動させ、各地の業者からもかえって信用を受ける結果となって、取引は旧に倍する勢いになった。

 明治18年、初代半七は75歳の天寿をまっとうして世を去った。そして同年に、二代目半七も44歳の若さで急死してしまった。

 豊島家はその後、二代目の長男である半七が16歳の若さで三代目として家督を継いだ。既に山一商店の名前は、一宮有数の糸商として通っていたが、なにぶん若い。山一が危ぶまれたのも当然だった。だが、三代目半七は根っからの商売人だった。周囲の不安をよそに、どんどん実績を上げ、大正7年(1918)には「株式会社山一商店」に改組して、近代的な経営に改めた。

 現代に入ってからの活躍についても紹介しよう。空襲ですべてを焼失した豊島だったが、昔の暖簾の信用は大きく、復興を遂げた。高度成長時代に入り、その舵を取ったのは現会長の豊島半七氏だ。半七氏は昭和4年(1929)生まれ。昭和38年から社長になり、昭和63年から会長になり、今に至っている。この間に地元で指折りの繊維会社になった。また一宮商工会議所では、昭和55年から平成17年(2005)まで会頭を務めた。

 豊島は自社のホームページで、未上場ながら決算書を公開している。自己資本額432億円、経常利益47億円という数字。さすが金持ちと昔から言われてきただけのことはある。

 現社長は豊島俊明氏で、会長の娘婿にあたる。東海銀行を経て入社し、平成14年に社長に就任した。「相場中心の商いから、繊維製品へと転換したことが今日の業績につながっている。当社は綿花・原糸という素材から手掛けているのが強みだから、その本業を大事にしながら、繊維製品全般へと展開してきたことが良かった」と先代に敬意をみせる。

 そして今後の抱負については次のように語っている。

「お得意様・仕入れ先に喜ばれるのはもちろん、社員も幸せになってほしい。自分だけの利益を追求していたら、長続きできない」「少しでも良い会社にして、次の世代に渡すのが私の使命。会社をお預かりしている立場だ。いずれにせよ企業は続けることがテーマであり使命」「中国などの海外で製造した繊維製品を日本に輸入して販売することが中心だが、国内需要が低迷・縮小していくので、三国間ビジネスはもちろんのこと、今後は中国やアセアン諸国に輸出することにも積極的に取り組みたい」

 一宮本店は、一宮市せんい2‐5‐11。

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