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第4部 江戸時代後期の部

文化5年(1808)
その2、間宮林蔵 樺太探検
――その時名古屋は・・・北斎が大ダルマを描く

間宮林蔵、決死の覚悟で樺太を探査

 樺太を探検し、間宮海峡(アジア大陸と樺太の間)の名でその功績を地図上に残した間宮林蔵が生まれたのは安永9年(1780)。土木などに才能を発揮し、各地で治水や新田開発に携わりながら測量の知識や技術を身に付けたといわれている。

 19歳の頃に蝦夷地(現・北海道)に渡る。文化3年(1806)には択捉島に渡り沿岸の測量を行う。その翌年、滞在中の択捉島でロシア軍艦に襲われ、抗戦を主張したが、結局は敗退した。この事件が契機となり、国防上から樺太調査の必要性を説き、自ら願い出て文化5年から翌年にかけて2度の樺太探検に赴いた。この時に間宮海峡を発見した。

 さらに大陸まで渡り、清国のデレンで清国の役人と会見し、宗谷に帰った。この時の経験を元に『東韃地方紀行』や『北夷分界餘話』を書き、北蝦夷地図も作成した。そして文政5年(1822)に松前奉行が廃止され、蝦夷地が松前藩に返還されるまでの23年間を蝦夷地で過ごした。江戸に帰った林蔵は普請役となるなどし、天保15年(1844)に65歳の生涯を閉じた。

借金を踏み倒した?北斎

『冨嶽三十六景』で知られる葛飾北斎は、江戸中期から後期に活躍した浮世絵師であり、とりわけ文化・文政の頃の町人文化(化政文化)を代表する一人だ。

北斎大画即書引札北斎大画即書引札(名古屋市博物館蔵)
120畳の紙に達磨の絵を描くパフォー
マンスの際の宣伝ビラ

 北斎は文化9年(1812)、関西旅行の途中で名古屋を訪れ弟子宅に滞在し、『北斎漫画』初編の下絵を描いた。文化14年には1年ほど名古屋に滞在し、10月には西本願寺で「大達磨」を描いて、町中の評判になった。

 北斎は、朝の9時からおよそ120畳の大きさの紙に、ワラを束ねた筆で描き始め、夕方に完成させた。翌日、高く掲げてお披露目したところ、快挙と褒め称えられ、町中で達磨ブームが沸き起こった。

 なぜ北斎は大きな達磨を描いたのか? それは、「小さな絵しか描けない」という噂を消すためだったという。当時北斎は、『北斎漫画』という絵を志す人のためのスケッチ集を、名古屋の数々の本屋から発売していた。その下絵を名古屋に滞在して描いていたとき、「北斎は小さな絵しか描けない」という噂が立った。

 北斎は、噂でプライドが傷ついた。そこで、実力を見せるために、120畳もの大きな紙に、達磨を描くパフォーマンスをした。ただ、裏事情には、『北斎漫画』売り出しキャンペーンの一つという出版社の思惑もあったようだ。

 その北斎、実は名古屋で借金をしたが、踏み倒した疑惑が残っている。北斎から永楽屋に宛てた書状を名古屋市博物館が所蔵している。日付は文化14年10月16日付。宛先は永楽屋番頭藤助。西本願寺での「大達磨画」の興行が10月5日であるから、それから10日余り後のことである。

 内容は「大達磨画」の興行主である永楽屋に「二両二分」の借金をした際の借用証文である。役所の役人を気取り、北斎自らを「へくさゐ」という第三者に置き換えて、挿絵を添えて当時の流行の草双紙風に演出した借用証文である。自分のことを「屁クサイ」と呼び、借金のやりとりを戯文化している。

 借用証書がそのまま残っているので、北斎はこの借金を返済していないのだろう。
[参考文献『大にぎわい城下町名古屋』(名古屋市博物館)]

葛飾北斎書状(名古屋市博物館蔵)葛飾北斎書状(名古屋市博物館蔵)

その時、名古屋商人は

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