江戸時代に一人の風変わりな青年が旅をした。出身地は今の千葉県で、遥かかなたの長崎まで諸国漫遊の旅に出た。青年はそこであるモノに出会った。ガラスだった。青年はよほど好奇心が旺盛だったようで、オランダ人に製法を教えてくれるように頼み込んだ。青年は苦心惨憺たる努力をしながら、その製法を身に付けた。
青年は、故郷に帰る途中、現在の可児市を通りかかり、土田という村を通った。そこで村人から近隣の山で珪石が採れることを聞き付けた。青年は、珪石という名前を聞いて飛び上がって喜んだ。ガラス製品の製造に不可欠な材料だったからだ。そこで土田に工房を構えて、ガラス作りに打ち込むようになった。
青年の名前は、石塚岩三郎という。石塚硝子株式会社の創業者である。土田でガラス製品を作り始めた文政2年(1819)をもって、創業年としている。
青年は幸運だった。当時の土田は、尾張藩の版図であった。幕末の尾張藩は、徳川慶勝という開明的な殿様がいた。慶勝はガラスを作り始めた人がいることを知り、興味を抱き、青年の工房をなにかにつけ可愛がってくれた。
石塚硝子はその後、明治・大正・昭和という激動の時代を生き抜き、ガラス製品メーカーとして飛躍した。会社としての基盤をガッチリと築いたのは、何といっても四代目の故石塚正信氏だ。故石塚正信氏は、労働争議を経験しながらも、岩倉本社工場を建設したり、株式上場を果たしたりと経営を推進した。
現会長の石塚芳三氏は、五代目にあたる。先代から次のように教えられたという。「自分の事業を発展させること。それだけだ。それができれば周囲の皆に喜んでもらえる」「公私を混同するな」「余分なことに手を出すな。株式や土地への投資はやらないこと」「財産は、人と技術と品質だ」
石塚芳三氏は、父の教えを受けながら、積極果敢に挑戦した。社長に就任するや、ガラス以外の分野への進出を図った。昔は牛乳ビンが主なガラス製品だったが、テトラパックという三角形の紙容器が登場したので、それに押されてしまうことを危惧した。そこで逆に紙容器市場に進出した。また、ペットボトルの分野への進出も果たした。お陰で、ガラス・紙・PETという容器の総合メーカーに発展した。現在ではガラス製品以外の売上高が4割まで高まっている。
東証および名証に上場。従業員数700人。本社は、岩倉市川井町1880。
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