第4部 江戸時代後期の部/その4、天保の大飢饉

その時、名古屋商人は

岡谷鋼機が「家訓」「店則」を定める

 笹屋(岡谷鋼機)の六代目惣助は天保7年(1836)、「家訓」を定めた。この家訓は、人間としての目標、社会人としての日常の業務・営業姿勢を方向付けたものだ。次の6カ条からなっていた。

「商人は売買を本として実意を以て出精すべし」

一、孝順父母 本末を正しくするは、夫れ父母は我身の本忘るまじき也、今孝心に本づかんとなれば、父母の恩、能くよく思ふべき也。
一、尊敬長上 主従上下の差別を本として年高き人若き人総て我上に在る人を尊敬すべし。
一、和睦郷里 郷村和睦の本は其家の和睦に在り其家の睦む本とは其人其意に在るなり、銘々意を正しく奉公大切さえ致候へば自然に傍輩中も睦敷く主人の意にも叶う也。
一、教訓子孫 幼稚の時父母に仕え年高き者を敬いいささかの事にも偽りケ間敷き事を言わず起居は必ず静にして勤怠の事なく常に心を用いて猥に他行不為衣食不驕身を守り貞信なるべし。
一、各安生理 夫士は武芸を嗜み公役を勤め、農民は耕作に出精して御年貢を上納仕り、職人は家芸出精して所伝の習失はず、商人は売買を本として実意を以て出精すべし。是れ四民生涯に付て定りたる道理なる故生理とは謂ふべし。
一、母作非為 天下に窮る事なしと云え共、総ての事是非の二つには不過、即ち道理に随ふを是と謂ひ、道理に背くを非為と謂ふ也。

 また「日誦五則」といって、毎朝就業前に古参番頭の前唱で全員声高らかに唱和する言葉も作った。それは次の言葉だった。

「分限を知り贅を慎むべし」

一、外を飾らず心を磨くべし。
一、分限を知り贅を慎むべし。
一、虚を憎み誠を重んずべし。
一、働くを楽み懶を羞とすべし。
一、責任を知り力を協すべし。

それから店員が守るべき「店則」も次のように定めた。
「音信贈答心付候節は、支配人に申達し、承諾をうけ取計うべきこと」

一、御公儀法度は申すに及ばず、勝負事は厳禁す。
一、土蔵へはお客を案内するを許さず。
一、職人方に心安立をなし、無礼をするな。
一、毎夜四ツ(午後十時)過ぎに土蔵を見廻るべきこと。
一、奉公中養父入の儀は許さず。
一、在所ならびに親類懇意同等の間柄にても、金銭貸借又は中立は一切禁ず。
一、音信贈答心付候節は、支配人に申達し、承諾をうけ取計うべきこと。
一、禁酒堅く相守るべし。
一、毎夜四ツ過ぎ表戸締まり、鍵取扱うべきこと。
一、来客又は案内他行致し、帰らざるうちは右表口錠をおろすべし。

[参考文献『岡谷鋼機社史』より抜粋]

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