文政10年(1827)
その3、薩摩藩 調所広郷が財政再建に着手
――その時名古屋は・・・幕府押し付け藩主斉温がハトの世話に明け暮れる
江戸時代後期に行われた改革というと、水野忠邦が行った幕府の天保の改革をイメージするかもしれないが、この項で取り上げるのは薩摩藩の改革である。薩摩藩は、長州藩と並び明治維新の原動力になったが、それは財政再建という困難な課題を克服したからこそできた。
薩摩藩を財政難に陥れた原因の一つである、幕府による薩摩いじめを象徴するのが宝暦治水事件だ。
木曽川・長良川・揖斐川の3河川は濃尾平野を貫流し、下流の川底が高いことに加え、複雑に合流・分流を繰り返す地形であることや、尾張藩の御囲堤より低い堤しか作ってはいけなかったことから洪水が多発していた。
宝暦4年(1754)、幕府は薩摩藩にこの3河川の治水工事を命じた。薩摩藩は、工事普請の知らせを受けて幕府のあからさまな嫌がらせに反発する向きが多かった。だが、受け入れて工事に着手した。工事は困難を極めたが、どうにか完了した。総奉行平田靱負は工費が膨らんだ責任を取って、割腹自殺した。最終的に要した費用は約40万両(現在の金額にして300億円以上)に及んだ。
薩摩藩の藩財政は窮乏を極めていた。文政年間には、負債500万両、年間利子は60万両という途方もない借金地獄であった。この借金の重荷に対して、当時の藩の年収総額10数万両は借金金利にも遠く及ばず、破産の危うきにあった。
ここで登場したのが、調所広郷である。調所は安永5年(1776)に生まれた。茶道坊主だった調所家を継いだわけであり、身分は低かった。調所を登用したのは、二十五代薩摩藩主島津重豪で、調所を家老に抜擢、藩財政改革を厳命した。調所は、文政10年(1827)に財政改革主任となり、財政再建に着手した。
調所が行ったのは、借金を踏み倒すことだった。「250年の年賦返済、および無利子償還とする」などと勝手に決めて、商人に一方的に通達した。調所は、借金を踏み倒す一方で、税収向上のため、物産の確保に力を入れた。薩摩藩の名産・黒砂糖の専売強化を図るため、奄美三島への管理を徹底し、次いで琉球を通した清国との貿易を盛んにした。
薩摩藩は天保11年(1840)、財政再建をほぼ完了した。調所が改革に着手して以来、13年後のことだった。だが調所は幕府に密貿易の罪を糾弾され、嘉永元年(1848)、服毒自殺した。享年73であった。
調所のやり方は、随分批判を受けた。だが、そのお陰で薩摩藩の財政再建ができたのも事実。明治維新の実現は薩摩藩の軍事力に負うところが大だったが、薩摩藩が維新の時に他藩と異なり、新型の蒸気船や鉄砲を大量に保有しえたのは、調所のお陰だ。
薩摩藩が財政再建のための血みどろの戦いを続けている最中、尾張藩はどうしていたか? 幕府押し付けの十代藩主斉朝は、家中で不人気だったが、さらに人望が低かったのは、調所が薩摩の財政再建に着手した文政10年(1827)に藩主となった十一代斉温だった。
斉温は江戸藩邸に常住し、死去するまでの12年間尾張藩領内に一度も入ったことがなかった。斉温は無類のハト好きで、江戸藩邸に大量のハトを飼育し藩費を浪費するという有様で、藩財政の問題など見向きもしなかった。斉温は、近衛家から正室を迎えた。尾張藩は、婚儀のために幕府から1万両を借り入れ、総額5万両を費やした。
この斉温の時代である天保9年(1838)、江戸で大火があった。江戸城から失火し、壮麗な殿舎をほとんど焼失した。幕府は再建を急ぐため、諸大名に御手伝普請・上納金を命じた。尾張藩に対しても、木曽のヒノキを提供するように求めてきた。御三家に対してまでも、このように協力を求めることは過去に前例のないことで、幕府と尾張藩との関係に亀裂が入った。
幕府から協力を求められても、尾張藩にはそんな余裕はなかった。尾張藩の財政は火の車だった。
[参考文献『新修名古屋市史』(名古屋市市政資料館)]
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