天保4~10年(1833~1839)
その4、天保の大飢饉
――その時名古屋は・・・千人以上が餓死
天保4年(1833)、下野国(現・栃木県)桜町領の再建を任されていた二宮金次郎は、昼食のおかずのナスが初夏だというのに秋ナスの味がするので、稲や道端の草を調べた。稲も草も、葉の先が衰えていることから、その年の天候は陰気なので作物が実らないと直感した。
金治郎は、陰陽のめぐり合わせから気象を判断することができた。百姓達を集めて、地下に出来る芋、大根、カブなど飢饉に強い野菜の種や冷害に強いヒエを蒔き、そのヒエが実ったら必ず蓄えておくように指示した。百姓達は「どうして今年の米の豊凶を、初夏の頃から知ることができようか。そんなにヒエばかり作っても、誰も食べたがらないし」とささやき合った。だが、年貢を減らしてもらえると聞いて、従わないわけにはいかなかった。
金次郎が予想した通り、盛夏になっても雨が降り続き、冷害によって関東から東北にかけて凶作になった。だが、金治郎の指導していた桜町領の村では食糧の備蓄があり、一人の犠牲者も出さないで済んだ。
天保の大飢饉は、天保4年(1833)に始まり、天保10年まで続き、天明の飢饉と同様に餓死、疫病、流亡などの惨状を呈した。天明の飢饉は比較的短期間に集中して餓死者や被害を出したのに対して、天保の飢饉は北陸、四国、九州を除く広い範囲で長期間にわたり、慢性的な被害を出した。
全国的な米価の高騰が起こり、飢饉状況が慢性化したため、一揆や村役人、穀商、質屋に対する打ちこわしや騒動が激発した。天保7年6月には幕府直轄領だった甲斐で大規模な百姓一揆(天保騒動)が起きた。
[参考文献『二宮金次郎の一生』(三戸岡道夫 栄光出版社)]
幕末のヒーローは、この天保時代に相次いで誕生した。
木戸孝允は、天保4年(1833)、長州藩(現・山口県萩市)で、藩医和田昌景の長男として生まれた。
近藤勇は、天保5年、農民宮川久次郎の三男として生まれた。
坂本龍馬は、天保6年の生まれ。土佐の郷士坂本八平の次男坊だった。
篤姫は、天保6年、鹿児島城下に生まれた。実父は薩摩藩主島津家の一門で今和泉領主島津忠剛だった。
土方歳三は、天保6年、武蔵国多摩郡石田村(現・東京都日野市石田)で生まれた。
高杉晋作は、天保10年、萩城下で、長州藩士の高杉小忠太の長男として生まれた。
渋沢栄一は、天保11年、武蔵国榛沢郡血洗島(現・埼玉県深谷市)に生まれた。
三菱の創業者・岩崎彌太郎は、天保5年(1835)に生まれた。現在の高知県安芸市井ノ口一之宮である。
岩崎家は甲斐武田の末裔だといわれる。それゆえに、家紋も武田菱に由来する「三階菱」。岩崎氏は永らく安芸氏に仕え、のち長宗我部氏に仕えた。山内氏入国後は山野に隠れて農耕に従事していたが、江戸中期にいたり郷士として山内氏に仕えるようになった。
郷士は、平時は農耕に従事しているが一朝事あるときは駈けつける「半農半士」である。天明以来飢饉が続き、各地で一揆が起きるなど農村の疲弊は極限に達していた。岩崎氏も彌太郎の曽祖父のときついに郷士の資格を売って食いつながざるをえないところまで追いつめられた。彌太郎が生まれたとき、岩崎家は正確には「元」郷士の家であり、地下浪人といわれる立場だった。
土佐の男は『いごっそう』。一本気で妥協を許さない。強情っぱりだ。酒飲みが多い。何せ、殿様自ら鯨海酔候と称するお国柄だ。昔から土佐では酒を飲みすぎて死ぬと、「ようそこまで飲んだのうし」と賞賛されたという。
彌太郎の父・彌次郎ものんべえだった。元郷士とはいえ、実質的に貧農の身であってみれば不満も多かったろう。酒を飲んではトラブルを起こした。
一方、しっかり者の母・美和は子供の教育には一家言を持ち、彌太郎がめそめそ泣いても一切無視した。その結果、負けず嫌いで直情径行、やると思ったらとことんやる、実にエネルギッシュな若者が育った。母譲りで、向学心が人一倍強く、しかも才気縦横の若者だ。
時は幕末。土佐には坂本竜馬、武市半平太、中岡慎太郎、後藤象二郎、板垣退助ら、今日ではお馴染みの男たちがひしめいていた。ロシア船やイギリス船が日本近海に現れた。若者たちは、ある者は攘夷を唱え、ある者は開国を主張したが、時代の変わり目にあるという認識は同じだった。幕末・維新の志士たちは大酒を食らっては大言壮語した。彌太郎もまさしく土佐の志士だった。
[三菱グループのポータルサイト「岩崎彌太郎物語」より一部抜粋]
天保という時代は、尾張藩で災害が相次いだ。
天保元年(1830)7月に大雨で矢田川が決壊し、浸水は城下の押切村以西まで達した。まさに「名府建て始めよりこのかた未聞」の洪水だった。
天保3年には、後世でいうところのインフルエンザが流行した。このインフルエンザは琉球使節団の一行が通過して始まったので、人々は「琉球風邪」と呼んだ。
天保4年は長雨が続き、名古屋城下では米価の高騰が始まった。天保の大飢饉の始まりだ。白米の価格は、通常なら百文で約1升(1升=10合)買えるが、それが「百文につき7合」まで急上昇したかと思うと、すぐ「百文につき6合」と暴騰を繰り返した。天保8年にはとうとう「百文につき3合半」しか買えなくなった。
木綿や油などの諸物価も同じく値が上がった。お陰で「町家下人」達の常食は雑炊粥となり、空腹に苦しむ人々が巷に溢れた。物乞いをする子供連れの女性や、乞食が城下で目立つようになった。
天保7年には台風が襲来し、各地で洪水を引き起こし、作物に壊滅的な被害を与えた。天保8年は、疫病も流行した。名古屋城下での餓死者は急増した。行き倒れた餓死者は日増しに増え、大須万松寺では行き倒れた人を弔う無縁大施餓鬼が行われた。
天保の飢饉が猛威を振るった天保8年5月、尾張藩は窮民に合計5千両を施すことにした。町奉行所では城下の町人6千軒に対し、1軒あたり300文の銭を分け与えた。この「名古屋窮民お救いの図屏風」は、町奉行所で300文の銭を受け取る人々を描いている。図の中央付近に300文の銭差(銭の穴にひもを通してまとめたもの)の黒い三角形の山が見える。この屏風は、いとう呉服店をはじめ、京町筋の商家が描かれている。
窮民達の間で、富商達に施しを求める動きは強まり、特に女性達は積極的に行動するようになった。施行の求めを断った富商が、打ちこわされるという事件も起きた。いとう呉服店は、内田忠蔵、岡谷惣助ら上層御用達商人らと打ち合わせて、施しをした。もちろんそうしなければ、打ちこわしに遭うという恐怖に駆られての協力でもあった。
飢饉は天保4年から天保10年までの7年間続いた。この大飢饉による餓死者は、名古屋城下だけで合計千500人に及んだ。
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