天保14年(1843)
その6、水野忠邦 天保の改革で失敗へ
――その時名古屋は・・・不況のまっただ中
天保の大飢饉が終わりかけていた天保12年(1841)、大御所と呼ばれていた徳川家斉が死去した。家斉は、将軍職を退いた後でも院政を敷いていた。
その死を待っていたのが老中水野忠邦だ。水野は、家斉派の追放に乗り出した。そして、将軍家慶の命のもとに、老中以下幕府の役人を江戸城の大広間に呼び集め、十二代将軍の上意を伝えた。八代将軍吉宗の享保の改革、老中松平定信の寛政の改革にならって改革に踏み出すという意味である。
水野忠邦の改革は、一言でいえば「昔に戻れ」的な内容で、反動的だったといわれる。まず発したのが「人返し令」といわれるものだった。当時は農村から都市部へ人口が移動し、お陰で幕府に入る年貢が減少していた。そのため江戸に滞在していた農村出身者を強制的に帰郷させた。
忠邦は、物価統制にも努めた。高騰していた物価を安定させるため、株仲間を解散させて商品流通を円滑化し、経済の自由化を促進しようとした。しかし株仲間が中心となっていた従来の流通機構が解体したことにより、流通システムがかえって混乱してしまい、景気の低下を招いた。
忠邦が行った政策の中で不人気だったのが「上知令」だった。上知令とは、江戸や大坂周辺の大名・旗本の領地を幕府の直轄地とするものだ。忠邦は将来、日本にも外国が攻めてくることもありうるとみていた。それまで江戸・大坂には、幕府領、大名領、旗本領が入り組んでいた。そこで大名、旗本には領地を幕府に返上させ、かわりに、大名・旗本の本領の付近で替え地を幕府から支給しようとした。
この上知令は、諸大名・旗本が強く反対し、将軍家慶からも撤回を求められるほど評判が悪く、忠邦失脚のきっかけになった。忠邦は老中免職となり、上知令ともども天保の改革は終焉した。
忠邦は、天保14年に退陣した。この改革は庶民の怨みを買い、失脚した際には暴徒化した江戸市民に邸を襲撃された。この天保の改革の失敗は、その後幕府を滅亡に導く要因となった。また、逆に成功した薩摩・長州の両藩は、その後雄藩として幕末の主役に踊り出ることになる。
しかしながら、我ら尾張藩に至っては、財政問題が足を引っ張り幕末に充分な活躍ができなくなる種を自ら蒔いてしまった。
[参考文献『日本歴史大系11 幕藩体制の展開と動揺』(井上光貞ほか編 山川出版社)]
文化・文政年間から天保年間(1804-1844)にかけて江戸で活躍した歌舞伎役者の市川團十郎の屋号は成田屋であった。天保3年(1832)、息子に八代目團十郎を継がせ、七代目團十郎自身は五代目市川海老蔵を襲名した。この時、成田屋相伝の「歌舞伎十八番」を選定した。
山伏の姿に変装した源義経が奥州へ落ちのびる時、安宅の関で見破られそうになり、弁慶の機転で難を逃れたという話を元にした歌舞伎の演目『勧進帳』を天保11年に、初代團十郎没後190年追善興行として初演。これにより、市川宗家の名をさらに高めた。ところが、時代は幕府の財政を立て直すための天保の改革の真っただ中、海老蔵(七代目團十郎)は江戸の町から追放された。やむなく大坂、京、大津、桑名などの旅回りを続けた。
追放された表向きの理由としては贅沢な暮らしぶりなどであったが、幕府のねらいは別のところにあった。天保の改革に本気で取り組んでいることを江戸庶民に知らしめるため、人気が高く権威もある海老蔵を見せしめとしたのである。
歌舞伎十八番は隈取りした化粧、誇張された衣装、見得といった荒事とよばれる演技を特徴とする。
この錦絵の弁慶は嘉永5年(1852)9月に海老蔵が河原崎座で演じた『勧進帳』の時のものである。
尾張の十二代藩主斉荘は弘化2年(1845)に亡くなった。その跡を継いで十三代藩主になったのは慶臧だった。慶臧は、田安徳川家第三代当主徳川斉匡の十男である。斉荘に男子がいなかったため、斉荘の娘と婚約し、弘化2年に10歳にして尾張藩主となった。
このとき、跡目相続を争ったのが後の十四代藩主になる松平義恕(のちの慶勝)だった。しかも義恕は尾張藩の支藩である高須藩出身である。また十二代藩主相続時にも争った経緯があって、尾張藩士は幕府の度重なる押し付け藩主に落胆、憤慨した。尾張藩では、この先代以来の押し付け藩主にかかわる藩内抗争が、幕末の尊皇攘夷派と佐幕派との対立につながっていくことになる。
慶臧は在任わずか4年で病没した。
[参考文献『尾張の殿様物語』(徳川美術館)]
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