初代又左衛門は宝暦6年(1756)に小栗喜左衛門家の長男として誕生した。半田村の有力な酒造家であった中野半左衛門家の幼い後継者の後見人として乞われ、養子に入ったのが23歳の時。以来、20余年にわたり半左衛門家の家業を守り続けた。
文化元年、後継者の成長を見届け、正式に分家を許された又左衛門は、その年の秋、江戸に向けて旅立った。江戸に到着した又左衛門は、そこで当時流行のきざしを見せはじめていた“すし”に出会う。それは現在の“握りずし”の原型となった“半熟れ”と呼ばれるものだった。
“半熟れ”とは“熟れずし”から“早ずし”へ移行する中間のすしのこと。元々の“すし”は塩漬けにした魚を米飯に漬け、乳酸発酵させる“熟れずし”で、一年以上かけて作っていた。一方、酢を一部加えて発酵を早めた押しずしの一種が“半熟れずし”である。
又左衛門は、現在のミツカングループの基となる中野又左衛門家を興し、酒造業のかたわら、酒粕を原料とした“粕酢”の製造を始めた。しかし、当時にあっては、酒造家が酢を造るということはまったく考えられないことだった。酒と酢は元来相性が悪く、酢のもとになる酢酸菌が酒をだめにしてしまうからだ。そんなリスクをあえて承知で、初代又左衛門は粕酢造りに取り組んでいた。江戸で“半熟れ”を食した又左衛門は、この“すし”には自分の造る“粕酢”の甘みや旨みが合うと確信。半田に帰るとさっそく江戸での大量需要を見込んで、本格的な酢造りをスタートさせる。
又左衛門は、知多の海運力と販売ルートを活かして、江戸に粕酢を送り込んだ。又左衛門の“粕酢”はやがて江戸で評判のすし屋でも使われるまでになっていった。“半熟れ”(後に早ずし)の流行という追い風を味方につけた初代又左衛門の強運と冒険を恐れぬフロンティア精神こそが、ミツカングループの原点になった。
初代又左衛門は、文化8年(1811)養子入りした二代目太蔵に「酢屋勘次郎」を名乗らせた。そして文化13年には家督を太蔵に譲った。
家督を譲るに際し、初代は事業経営・家督の心構えを伝える八カ条の「言置」を定め、二代目に託した。「先祖、一族を含め、周囲の人々に支えられてこそ、家業が成り立つ」。そのメッセージは、今日に至るまで中埜家の家訓として生き続けている。
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