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第4部 江戸時代後期の部

天保9年(1838)
その5、長州藩 藩政改革に着手
――その時名古屋は・・・十二代藩主斉荘が茶の湯にのめり込む

長州藩 家老の村田清風が改革に着手

 長州藩の改革はどのように行われたのだろうか。

 長州藩の領地で天保2年(1831)に一揆が起こり、参加者は10数万人に達した。襲撃されたのは、村役人と特産物の買い占めで暴利をむさぼっていた商人達だった。長州藩は、財政再建策の一つとして産物会所を作り、彼らに特産物の売買を独占的に許したが、その改革案に民衆が抗議の一揆を起こしたのだ。

村田清風画像(村田清風記念館蔵)村田清風画像(村田清風記念館蔵)

 十三代藩主毛利敬親は家督を継ぐと、天保9年中級武士だった村田清風を抜擢し、藩政改革を命じた。村田は当時、既に56歳であった。この頃の長州藩は、負債が銀8万貫を超えていた。村田はこの負債を「8万貫の大敵」と呼んで、削減に乗り出した。村田は四白政策で、紙、蝋、米、塩の生産強化を行い、天保13年には早くも3万貫の負債を減らすことに成功した。

 村田は天保14年、「三七ヵ年賦皆済仕法」なるものを出した。これは、藩債については、元金の3%を37カ年にわたって返済すれば、皆済とする一方的な返済案だった。また、藩士の借財についても、藩がいったん全部肩代わりすることとし、同様の条件での返済をすることにした。

 村田は下関という場所の重要性にも着目した。この頃、下関海峡は西国諸大名にとって商業・交通の要衝であった。そこで白石正一郎ら地元の豪商を登用して、越荷方を設置した。越荷方とは藩が下関で運営する金融兼倉庫業であった。他国船の越荷(他国から入ってきた荷物)を担保に資金を貸し付けたり、越荷を買っては委託販売をした。このような村田の財政改革により、長州藩の財政は再建された。

 しかし、三七ヵ年賦皆済仕法は、藩士が多額の借金をしていた萩の商人らに反発を受けた。また越荷方を成功させたことで、大坂への商品流通が減少したため、幕府当局からの横槍が入り退陣に追い込まれた。

 村田は63歳の時、多くの業績を残しながら職を辞し、生家である三隅山荘に帰り、隠居した。以後人材の育成に力を注ぎ、三隅山荘に開いた私塾、尊聖堂は多くの子弟達で満ち溢れた。

 村田の志は、周布政之助が安政期に引継ぎ、改革を実行した。また、その志は吉田松陰、高杉晋作、木戸孝充、伊藤博文にも受け継がれ、長州藩改革派を輩出する原動力となった。このような流れを考えると、まさに村田こそ明治維新の真の立役者である。

[参考文献『日本歴史大系11 幕藩体制の展開と動揺』(井上光貞ほか編 山川出版社)]

茶の湯にのめり込み政治を忘れた十二代藩主斉荘の治世

 長州藩が改革の苦しみにもがいていた頃、尾張藩はどうしていたのか? 残念ながら、その対極にあった。

 斉温は天保10年(1839)に死去した。その跡を継いで十二代藩主になったのは斉荘だった。斉荘は、文化7年(1810)、将軍家斉の十二男として誕生した。十二代将軍家慶は兄にあたる。つまり、またしても幕府の押し付け藩主だった。

 この藩主交替は、さすがに尾張藩内に大きな反発を生んだ。先代斉温の遺言でもなく、隠居していた先々代斉朝にもまったく相談もないなど、失礼極まりない決定だった。家中では「御家の恥」「御国辱」とまでいいあったものだという。藩内では支藩である高須藩主松平義建の次男秀之助(後の慶勝)の藩主就任を望む者が多かった。

 当の斉荘は、藩政に関心を寄せないどころか、茶の湯にのめり込んだ。裏千家十一世玄々斎精中から茶の湯の指南を受け、「茶の湯秘伝書」を伝授された。遊芸好きの斉荘は、苦しい藩財政を顧みなかった。そのことも藩内に反発を招く要因となった。

 天保12年は、藩札「米切手」の再延長が認められた文化13年から数えて25年目にあたったが、財政破綻の状況にあっては、3度目の延長を幕府にお願いするほかなかった。米切手は幕府の示した制限額をはるかに超える46万石、すなわち金76万両に達していた。また、藩債も100万両を超え、その利払いに年7万両が要った。

 幕府は米切手の発行額が当初の制限額をはるかに超過して、金銀札と同様に流通している事実を厳しく指摘してきた。結局、幕府は制限額の米12万石分に限っては今後10年間に回収することを条件にその流通を認めたものの、すみやかに整理・回収すべしという方針を一歩も譲らなかった。

 こうして天保年間における藩の直面した財政上の課題は、米切手の回収とそのための正金の確保をどうするかということであった。藩は米切手の回収のための正金確保に全力を上げた。また商人達を組織化して、またも調達金を命じた。また、家中には上米、領民には日掛金を課した。

 この頃、老中水野忠邦による天保の改革の真っ最中だった。天保12年から本格化した改革は、株仲間(商工業者の独占的な同業組合)解散に代表されるように、幕府が直接産業統制にあたるものだった。

 尾張藩も幕令にならい、領内の物価の動向に目を注いだ。名古屋城下で仕入値・売値・利幅・値下げなどについて、商家ごとに克明な立ち入り調査を行った。藩は、物価の引き下げを督励した。その一方で、冥加金の上納を条件に株仲間を存続させた。また、国産会所を設けて、国産品の領外移出を厳しく統制した。そのあたりは幕府の方針とは異なっていた。

[参考文献『尾張の殿様物語』(徳川美術館)]

その時、名古屋商人は

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