バッグ・財布・服飾雑貨の森本本店は、天明元年(1781)の創業だ。
創業者の初代森本善七は知多郡の出身で、「笹屋」を創業し、小間物を扱うようになった。小間物とは、かんざし、鼈甲などの和装品である。創業の場所は、鉄砲町(現・名古屋市中区栄2)だ。
商いを伸ばしたのは、二代目善七の代だった。二代目は、小間物のほかに袋物、和装小物(半襟、帯締め)などの装飾品の取り扱いにも乗り出した。慶応4年(1868)には、尾張藩御勝手御用達格の商人に格付けられた。明治以降、二代目善七の活躍はますます目立つようになる。尾張藩は明治元年(1868)、藩の特産品を奨励する目的で勘定奉行所内に「国産係」を設けたが、二代目はその際にも「国産御用達」に任命されている。
いよいよ本格的な発展を遂げたのは、三代目善七の代だった。三代目は、本業のかたわら財界人としても活躍した。明治14年に愛知県議会議員選挙で初当選し、大正元年(1912)から昭和3年(1928)まで貴族院議員を歴任した。明治19年に名古屋株式取引所の頭取に就任した。明治20年には名古屋銀行(東海銀行の前身の一つ)の頭取に就任した。当時銀行は第一次世界大戦後の困難な時代で、銀行の取り付け騒ぎが起きることがよくあったが、堅実経営で名の通っていた名古屋銀行でも、その難に遭うおそれが無きにしもあらずで、三代目善七は私財を投げ打って、それに供える準備をしたほどであった。明治44年には日本車輌製造の社長にも就任した。
四代目善七は婿養子であった。東京大学法学部卒で三菱商事に勤めた俊英で、請われて森本本店に入った。この四代目はいってみれば中興の祖のような存在だった。昭和初期より通信販売を始め、中国・台湾・南洋諸島・樺太などへ販路を拡大した。カタログを使った通信販売は当時前例のない試みであったという。だが、四代目の時に戦争で被災した。店舗は焼失し、一時休業に追い込まれた。終戦直後は、中区大須の万松寺にて再出発。三代目、四代目ともに自社の店員を重んじ、その能力を活用したものである。通信販売も、店員の自発的発案を採用したものにほかならなかった。
現在の森本敏郎会長は、五代目にあたる。四代目が昭和28年(1953)に死去したので、24歳という若さで経営の第一線に立った。昭和29年には近代的様式の店舗に改装してセミセルフサービス方式を採り入れるなど、好評を博した。現社長は、岡田康男氏。同族ではないが、会長に見込まれて抜擢された。現在は、バッグ・財布・服飾雑貨・バラエティグッズなどを量販店や専門店に卸売している。本社は、平成17年(2005)に一宮市浅野字西大土96に移転した。
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