第3部 江戸時代中期の部

元禄15年(1702)
その3、忠臣蔵
――その時名古屋は・・・地元出身の志士・片岡高房の活躍に沸く

元禄の人々を沸かせた赤穂浪士

 ご存じ忠臣蔵。赤穂浪士による討ち入り事件は、元禄15年(1702)に起きた。赤穂浅野家の遺臣である大石内蔵助良雄以下赤穂浪士四十七士が吉良屋敷に討ち入り、主君に代わって吉良上野介を討ち果たし、その首を主君の墓前に捧げた後、幕命により切腹した。

 事件の発端は、江戸城内で起きた刃傷事件だった。元禄14年3月、江戸城本丸御殿松之大廊下(現・皇居東御苑)において、浅野内匠頭長矩が吉良上野介に斬りかかった。吉良上野介は額と背中を斬られるが、側にいた旗本がすぐさま浅野内匠頭を取り押さえた。

 将軍徳川綱吉は朝廷との儀式を台無しにされたことに激怒し、浅野内匠頭を即日のうちに切腹、赤穂浅野家の改易を命じた。改易とは身分を剥奪し、領地や家屋敷を没収する刑である。藩主切腹の悲報が伝わった赤穂では、筆頭家老大石内蔵助が藩内の意見を統一するため会議を開いた。会議で大石は、開城か籠城かの決断を迫られたが、長矩の弟大学による浅野家再興を目指す大石は開城を決断した。急進派の堀部安兵衛らは、長矩の遺志を継いで吉良への仇討ちを主張した。翌年7月に大学が広島藩お預けとなり、浅野家再興の望みが断たれた後は、大石らも仇討ちの計画に加わった。

 元禄15年12月14日の深夜、赤穂浪士四十七士は、江戸市中3カ所に集合して、本所吉良屋敷(現・本所松坂町公園)へと向かった。表門からは、大石内蔵助を大将とする23士が、裏門からは大石の嫡男主税を大将とする24士が吉良屋敷へ乱入した。[参考サイト「赤穂市役所のサイト」]

地元出身の志士・片岡高房の活躍に沸く

 この赤穂浪士の事件は、名古屋でも話題になった。四十七士の中に地元名古屋の出身者がいたからだ。その名は、片岡高房である。のちに源五右衛門と称した。

 高房は、寛文7年(1667)、尾張藩徳川家の家臣である熊井重次郎の長男として名古屋に生まれた。しかし生母が側室であったため、実母と同居することも許されなかった。母恋しさに、こっそりと在所の清須まで会いに行くこともあったという。正室の子が生まれると、幼少時に親戚の赤穂藩士片岡六右衛門に養子に出された。

 高房は、養父が死去したため、片岡家の家督を相続し、小姓として浅野内匠頭の側近くに仕え始めた。その後トントン拍子に出世して高禄を受けるようになった。だが、主君浅野内匠頭の刃傷事件のお陰で人生が暗転する。高房は、浅野内匠頭が江戸城松之大廊下で吉良上野介に刃傷に及んだ際には、城内で供待ちをしていた。内匠頭は即日切腹と決まった。高房は、最期に一目浅野内匠頭と会うことができた。

 テレビや映画では、高房と浅野内匠頭との別れの場面は、忠臣蔵の数々の名場面のうちの一つだ。桜舞い散る田村右京大夫邸の廊下を内匠頭は切腹場へと向かう。呼び止められた内匠頭は庭の木の下に控える高房と目が合った。二人は何も語らずただお互いの目の中に無言の別れを読み取った。

 高房は、内匠頭の遺骸を泉岳寺に葬り、その墓前で髻を切って吉良上野介への仇討ちを誓った。主家廃絶の後行商人に姿を変え、名古屋に戻った高房に、父重次郎は主君の仇も討てない腰抜けだと罵倒した。仇討ちの計画を人に漏らすことができない高房は、何も言わずに立ち去った。

 吉良屋敷討ち入りにおいては、高房は、表門隊に属して十文字槍で戦った。赤穂浪士一党は激闘の末に、吉良上野介を討ち取って本懐を果たした。一党は泉岳寺へ引き上げ、吉良上野介の首級を内匠頭の墓前に供えて仇討ちを報告した。父重次郎は、討ち入りを伝えるかわら版に我が子高房の名を見つけると、声を上げて喜んだという。

 高房は、討ち入り後に大石内蔵助らとともに切腹。享年36。主君浅野内匠頭と同じ高輪泉岳寺に葬られるとともに、遺髪は熊井家の菩提寺乾徳寺(名古屋市中区新栄2丁目)に納められた。

 赤穂事件によって、一介の藩士であった熊井家は、一躍尾張の人気者となった。だが、尾張藩はこの高房と熊井一家に対して冷淡だった。それどころか、家禄を半減するという措置さえ容赦なく実行した。

 これに対して名古屋の庶民は、義士達を熱烈に支持した。仮名手本忠臣蔵も、名古屋でしばしば上演され、高房が登場する場面になると満場に拍手が沸き起こった。
[参考文献『尾張藩漫筆』(林菫一 名古屋大学出版会)・『新修名古屋市史』(名古屋市市政資料館)・参考サイト「開府400年・名古屋の歴史と文化」(沢井鈴一氏サイト)]

文武両道だった四代藩主吉通と、3歳で死去した五代藩主五郎太

 吉通は、元禄2年(1689)、三代藩主綱誠の十男として誕生した。元禄12年、父の綱誠が48歳で急死したため、その後を継いで藩主となったが、当時まだ11歳だった。吉通は、儒学、国学、神道を修め、武術では尾張新陰流第9世を継承したほどだった。

 吉通の治世は、尾張にとって災難続きだった。元禄13年には城下西部一帯が焼失した。宝永4年(1707)には大地震に見舞われた。このような苦しい状況を打開するため、吉通は政務に励んだ。財政再建を図るため、商人に献金を課した。その一方で、大火の被災者に見舞金を配ったりした。

 吉通は名君の誉れが高かったようだ。正徳2年(1712)、時の将軍徳川家宣は死の一カ月ほど前、新井白石を病床の枕元に呼び「吉通殿を後継にしたい」と相談したことさえあった、と白石はその著書に書いている。

 家宣の死の翌正徳3年7月26日、吉通は25歳の若さで死去した。その後は、その子の五郎太が後を継いで五代藩主となった。だが、五郎太は相続から2カ月ほど後に、わずか3歳で死去してしまった。これで尾張徳川家の直系が絶えてしまった。藩内は悲嘆号泣した。五郎太の死後は、叔父の継友が継いだ。[参考文献『尾張の殿様物語』(徳川美術館)]

東海・東南海・南海地震が同時発生した宝永地震

 宝永4年(1707)、中部、近畿、四国、九州の広い地域にまたがり、東海地震・東南海・南海地震が同時に発生した。地震の規模はマグニチュード8・6、日本最大級の巨大地震だった。これを総称して宝永地震という。

 地震による被害は近畿、東海のみならず九州から山陰、山陽、信州、甲斐、北陸など広範囲に及んだ。さらに津波が九州から関東の房総半島の沿岸部を襲った。津波は高いところで推定10メートルもの高さとなって沿岸部の村々に押し寄せ、各地に甚大な被害を与えた。

 これらの震災や津波による死者は一説では2万人以上とも言われている。そして宝永地震から49日後の2月16日、富士山が大噴火をする。この時の噴火によって富士山の中腹にできた山は宝永山と呼ばれ、今も富士山の東南斜面で見ることができる。また噴火による火山灰は江戸の町にも大量に降り積もった。[参考文献『新修名古屋市史』(名古屋市市政資料館)]

その時、名古屋商人は

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第3部 江戸時代中期の部

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第4部 江戸時代後期の部

第5部 特別インタビュー