元禄16年(1703)
その4、近松門左衛門が曽根崎心中を初演
――その時名古屋は・・・心中が流行
江戸時代の文豪として、井原西鶴や松尾芭蕉と並び称されるのが近松門左衛門である。近松は、人形浄瑠璃(現在の文楽)と歌舞伎の世界で活躍した劇作家だ。その代表作である人形浄瑠璃『曽根崎心中』が初演されたのは元禄16年(1703)だ。
この物語のあらすじは、こんな内容だ。
〈醤油屋の手代徳兵衛と天満屋の遊女お初は将来を誓った仲。徳兵衛は、主人からすすめられた縁談を断り、そのため養母が受け取った結納金を返そうとするが、友人にだまし取られ、逆に偽判の汚名を着せられる。徳兵衛はその恥辱を濯ぐため、深く言い交わしたお初と「あの世で一緒になろう」と死ぬことをともに決意し、示しあわせ天満屋を抜け出し最後の場所曽根崎の森へ向う〉(尼崎市役所サイトより)
『曽根崎心中』の初演は、大坂道頓堀にある竹本座での公演であった。興行は大成功を収め、その後「心中物」が大人気となった。近松の代表作の一つである『心中天網島』も享保5年(1720)に発表された。この物語は、同年に起きた紙屋治兵衛と遊女小春の心中事件を脚色したもの。愛と義理がもたらす束縛が描かれている。後に歌舞伎化された。
しかし、厳しい封建制度の制約の下で、情死によって愛を貫く心中物のストーリーに共感した人々の間で、情死事件が相次いだ。江戸幕府は享保8年に心中物の上演を禁止し、心中した者の葬儀を禁止するなどして影響の拡大を抑えようとした。[参考サイト「尼崎市役所のサイト」・「近松門左衛門の菩提寺・広済寺のサイト」]
近松の曽根崎心中は、名古屋にも“心中ブーム”を巻き起こした。
名古屋市中区正木町にある闇之森八幡社は、江戸末から明治初期に刊行された地誌『尾張名所図会』で〈その昔植えゑにしきぎの年を經て月さえもらぬくらがりの森 とよみしごとく、今も古木森々として、白晝もをぐらき神祠なり〉と紹介されているように、大木が茂り昼間でも薄暗かった。
この森で遊女小さんと畳屋喜八の心中事件が起きたのは享保18年(1733)であった。当時、心中は幕府によって禁止されていた。法度(法令)を破って心中したものは葬儀や埋葬することを許されず、ごみのようにして捨てられた。生き残ったものはさらし者にされて非人とされるか、殺人犯として処刑された。
小さんと喜八の心中は未遂に終わり、3日間さらされただけで親元へ帰された。この寛大な処置は、尾張七代藩主宗春の計らいだといわれている。許された2人はその後結婚し、子供にも恵まれたという。
元禄16年(1703)に近松門左衛門の「曽根崎心中」が上演されて以来、心中ものが流行っていたこともあり、豊後節の祖、宮古路豊後掾がこの話を聞き、「名古屋心中」という浄瑠璃にした。名古屋ばかりか江戸でも上演されて評判となった。そして闇之森八幡社も全国的にその名が知られることになった。
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