第3部 江戸時代中期の部/その5、吉宗が享保の改革

その時、名古屋商人は

この頃創業した会社・タキヒヨー

初代瀧兵右衛門初代瀧兵右衛門『瀧兵の歩み』より

 タキヒヨー株式会社という会社を知らない人は、名古屋経済界ではまずいないだろう。そのタキヒヨー株式会社のルーツは古く、江戸時代中期に遡る。社史『瀧兵の歩み』によれば、八代藩主宗勝治世の宝暦元年(1751)の創業だ。

 初代兵右衛門は、古知野(現・愛知県江南市)で絹織物の卸売業を始めた。古知野の近辺は、百姓の副業として養蚕が盛んに行われていた。繭から糸にする者、さらにその糸で織物を織る者も沢山いた。だが、その多くは副業であって、本業にしている人はわずかだった。京で修行した兵右衛門は、これらの織物を買い集め、それを京呉服と一緒に行商すれば、呉服はもとより地場織物の販路拡大にもつながると商いを始めた。兵右衛門は、天秤棒を担いで機場廻りに余念がなかった。滝家はもともと地主で家柄も良く、そこへ兵右衛門が腰を低くして商いに来るので、信用は日増しに高まった。

 また、跡を継いだ二代目兵右衛門は信仰心が厚く、江戸前期の僧浅井了意にちなみ、別名「了意」と名乗った。二代目は、初代に負けず劣らず商売に励んだ。天明9年(1789)、店の者を集め、京呉服や関東織物の取り扱いをしたいと説明し、さっそく関東織物部を新設して商売を始めた。このように、二代目は父から受け継いだ京呉服だけでなく、関東織物の販売や尾州特産織物の元卸売などへ事業を拡大した。

 二代目は、名古屋にも進出した。初代から引き続き尾北の古地野を拠点にしていたが、将来性を考えて、藩主のお膝元に進出を決めた。そこで文政8年(1825)、名古屋の東万町3丁目に店舗を買い入れ、絹屋兵右衛門の支店として、呉服太物の卸売業を開業した。

 このタキヒヨーの創業家である滝家は、名古屋財界で大きな役割を果たすことになる。瀧定もその分家である。後の世ではあるが、例えば名古屋銀行(後の東海銀行の前身)を設立したのも滝家だった。滝実業学校(後の滝学園)を開校して、教育の分野でも貢献する。

 この老舗商社にも経営危機を迎えた時があった。昭和49年(1974)だった。そこで再建役になったのが伊藤是介氏であった。滝茂夫氏は「ご先祖の残して下さった名前と信用のお陰で助けられた」と当時を想像する。この再建ヒストリーは、特別インタビュー「タキヒヨー再建 その時私は」(第5部参照)としてまとめた。

 同社は「瀧兵株式会社」から社名変更して「タキヒヨー株式会社」になっている。本社は名古屋市西区牛島町(名古屋ルーセントタワー)。社長は滝茂夫氏。資本金は36億円。従業員数600人。東京証券取引所市場第一部に上場。[参考文献『瀧兵の歩み』・『創Dream250』]

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第3部 江戸時代中期の部

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第4部 江戸時代後期の部

第5部 特別インタビュー