享保元年(1716)
その5、吉宗が享保の改革
――その時名古屋は・・・宗春が藩主として独自政策
徳川吉宗は、テレビドラマの『暴れん坊将軍』の主人公になるほど人気がある。下情に通じ、優しく強い、正義感に富んだ理想的な君主として日本人の心に棲みついているといえる。
江戸幕府中興の祖と言われる徳川吉宗は、紀州藩祖徳川頼宣の孫で、家康の曾孫(ひ孫)に当たる。彼の三人の兄が次々と病気で死んだため、宝永2年(1705)に第五代紀州藩主になった。吉宗が藩主になったころの紀州藩は、非常に苦しい財政状態だった。吉宗は、12年間藩主として在籍した間に、緊縮政策と倹約、米の増産によって、紀州藩の財政を建て直した。
吉宗が紀州藩主になった時の将軍は第五代徳川綱吉だった。綱吉が宝永6年に死亡すると、三代将軍家光の孫家宣が将軍になった。しかし家宣も3年後の正徳2年(1712)に病死し、その子供の家継がわずか4歳で第七代将軍になった。だが、その家継も享保元年(1716)に急逝したため、将軍の後継者が幕府内部にいなくなった。そのため、御三家から跡継ぎが選ばれることになったが、家康との血縁関係が近いこと、紀州藩の財政建て直しの実績が評価されたことなどから、吉宗が八代将軍に選ばれた。
吉宗は、宗家以外の紀州徳川家から将軍に就任しただけに、先例格式に捉われない改革を行った。それは、ひとえに財政再建が目的だった。倹約を進めながら、その一方で、年貢の比率を五公五民に引き上げて増税した。淀川河口の新田開発も進めた。また、蘭学者青木昆陽に飢饉対策作物として甘藷(サツマイモ)の栽培研究を命じた。
だが、農民に対する収奪の強化は過酷だった。年貢を家宣・家継時代の四公六民から五公五民に引き上げた結果、農民は困窮し、その後人口の伸びも無くなった。一揆も増えた。[参考サイト「和歌山市役所のサイト」]
正徳3年(1713)に尾張藩六代藩主になった継友は、第三代藩主綱誠の子だった。元服の後、兄である四代藩主吉通の名を一字賜り、通幸と名乗り、後に将軍家継の名を一字賜り継友と改めた。
継友は、七代将軍家継の死後、次期将軍の有力候補だった。しかし、紀州徳川家の吉宗が将軍になってしまった。尾張藩は御三家筆頭だ。本来なら継友が将軍になってもおかしくないはずだった。尾張藩中では、この決定に不満の向きが多く、江戸の町では尾張家の無策、無能ぶりを中傷する落書が飛び交ったほどだ。
尾張藩主としての継友は、藩財政の立て直しに注力して成果を出した。継友の経済政策は、倹約の徹底だった。藩主の縁戚さえも支出削減の対象になったほどで、正徳5年には、それまで米1万石と金4千両であった支族大久保家への給付をそれぞれ半減した。
享保3年(1718)の収入は、金部門では収入11万両、支出10万両、米部門は、収入13万石、支出12万石で、剰余が出た。この米を同年の米価一石一両で換算すると、差し引き2万両の黒字になった。継友の治世は、行財政改革の成功によって名古屋の城下町が目覚ましく発展し、人口も7万人を超えた。
継友は、享保15年に死去した。享年39だった。あまりに唐突な死であったために、市中では「将軍家の刺客の手で殺されたのでは」という風説が広まった。その後は、弟の宗春が養子となって次の藩主となった。[参考文献『新修名古屋市史』(名古屋市市政資料館)・『尾張の殿様物語』(徳川美術館)]
「将軍吉宗のライバル」とも評される徳川宗春は元禄9年(1696)に尾張三代藩主綱誠の子として生まれた。十九男である宗春には、出世の可能性はほとんどなかった。その宗春に幸運が訪れた。尾張藩の支藩である奥州梁川藩(現・福島県伊達郡梁川町)の大久保家の当主が後継ぎなく死去した。宗春は梁川藩を相続し、3万石の藩主に取り立てられた。
その宗春の人生を大きく変えたのは、麻疹だった。享保15年(1730)、兄の継友が死去した。同じ頃、宗春も麻疹に罹っていたが、回復した。宗春は継友の後を相続し、尾張藩七代藩主となった。
宗春は、名古屋に入る際、華麗な衣装に身を包んだ。鼈甲製の唐人笠を被り、金糸で飾られた虎の陣羽織姿で馬上にあった。この異様な風体は名古屋の人々の度肝を抜いたという。この姿で分かるように、宗春は個性的だった。
その頃、吉宗が享保の改革で倹約政策を実施していた。だが、宗春はこの政策に反抗した。自ら『温知政要』という著書を著したが、それはいってみればマニフェストだった。その中には「倹約は大事だけれども、度が過ぎると民の不自由になる」と書かれている。
宗春は尾張藩主に就任すると、『温知政要』を藩士に配布した。また、名古屋城下での芝居小屋や遊郭の営業を許可するなど開放政策を行った。この結果、名古屋の街は活気を取り戻した。
宗春は経済の活性化を図ったが、尾張藩は宗春の代の放漫経営のために赤字が膨らんだ。元文3年(1738)には差し引き14万両という大赤字に陥った。同年の金米両部門の支出総額は42万両で、これは継友治世の享保3年(1718)の支出総額35万両をはるかに上回っていた。
このような財政事情から、宗春自身も軌道修正を余儀なくされ、3カ所の遊郭を1カ所に、芝居小屋も新規は取り払うべしの命を出し、規制緩和政策は後退した。また、財政悪化により農民、商人に上納金の割り当てを命じたため、民衆の人気を失った。
これらの失政を見た家老竹腰正武ら国元の藩重臣は、幕府の後押しを得て、元文3年(1738)宗春が参勤で江戸に赴いた後、謀反を起こし藩政の実権を奪った。そして宗春の命令をすべて無効とし、藩主就任前の状態に戻すという指示を出した。吉宗は、宗春に対して蟄居を命じた。宗春の処分は死後も続き、墓石に金網が掛けられた。
このように失脚してしまった宗春だが、名古屋が発展する基礎を築いたという点で、評価する向きも多い。その功績は、第一に自ら率先して華やかな消費生活を行うとともに、芝居・踊り・遊郭などを奨励して消費景気をあおったことだ。次に、営業の自由を大幅に認めたことだ。芝居・見世物などの諸興行、飲食、遊郭などの営業を認めただけでなく、それ以外の商業についても認めた。だから京都の大丸屋のように、以前から名古屋で商売をしていたが、享保19年に名古屋で家屋敷を求めて、正札通りの現金売りで呉服商を営むようになったところもあった。[参考サイト「大須商店街のサイト」・参考文献『新修名古屋市史』(名古屋市市政資料館)]
宗春が将軍吉宗によって強制的に隠居させられると、高須松平家の養子となっていた宗勝が元文4年(1739)、その後を継いで八代藩主となった。宗勝は、藩主の座に就くとともに、宗春時代の「諸法度条々」の内容をすべて改め、三代藩主継誠、六代藩主継友の代を基準とした。「諸法度条々」というのは、幕府の武家諸法度に準じて、歴代藩主が定めた訓示である。
宗勝が藩主になった時の尾張藩の財政は、元文3年になると14万両という巨額の赤字に陥っていた。宗勝は、7カ年に及ぶ厳しい倹約令を定めて、財政の健全化に努めた。奥向きはもちろんのこと、諸役所の支出経費を大幅に削減した。家中に対しては、家計を切り詰めるように指示した。
宗勝は、上米や調達金を極力回避しながら「知行切米半減の覚悟」で倹約を続け、延享4年(1747)までに、金部門で2万両の不足があったものの、米部門では3万石の余剰をみて、差し引き1万両の黒字に転じた。
宗勝は、寛延元年(1748)、困窮している家中の者のため、高100石につき金20両を10カ年の年賦返済で貸した。また豪雨で田畑の損害が出た小牧村の村人に無利子で10年賦の条件で藩金を貸与した。領民を苦しめないために、増税も行わなかった。宝暦7年(1757)の未曾有の大洪水による被害にもかかわらず、徹底した緊縮財政の甲斐あって、宝暦10年までにわずかであるが、金2千両の余剰を残すことができた。しかし、尾張藩はこれ以降、2度と余剰が出ることはなかった。
宗勝は学問も奨励した。後に藩校明倫堂の前身となる巾下学問所を創設し、自ら「明倫堂」という額を書いて与えた。名君として崇められた宗勝は、宝暦11年(1761)57歳で死去した。その後は次男の宗睦が継いだ。
このグラフは、尾張藩の収支をまとめたものである。『新修名古屋市史』に載っているデータをもとに作成した。当時の藩の収入は、2つの部門があった。米部門は、年貢米や山林や河海の産物などに課される小物成、付加税である三升口米、七合物が主要な収入で、支出は江戸下米や家中扶持米などであった。金部門は、年貢金、夫銀、堤役銀、伝馬銀などが収入で、支出は江戸費用や諸役所経費、藩主一族の入用、家臣団の扶持であった。その2つの収支を合計した総収入のプラスマイナスを載せた。
これをみると、継友が堅実財政に徹していたことがわかる。宗春はデタラメな財政運営だった。その後を受けた宗勝は、財政の建て直しに懸命になって取り組み、黒字転換を果たした。
[参考文献『新修名古屋市史』(名古屋市市政資料館)]
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