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  3. 大正12年 材木商として港と共に生きる 名古屋港木材倉庫

この年に誕生した会社

材木商として港と共に生きる 
名古屋港木材倉庫

 名鉄常滑線の大江駅、その西方に大江グランドゴルフ(名古屋市南区加福町2丁目)という練習場がある。その付近一帯は以前、貯木場だった。

 この加福町一帯は、昔は海だった。江戸時代に新田開発が進み、加福新田と呼ばれる干拓地になった。その歴史を語ると、名古屋港木材倉庫株式会社という会社の社史になる。

 名古屋の材木商は、昔は五条橋付近の堀川沿いに並んでいた。その堀川はイカダで運ばれる材木で渋滞していたという。明治時代になり、樺太が日本領になると、樺太からの材木の購入が増えてきた。そこで材木の貯木場が必要になった。

 そこで材木商や地元地主が集まって会社をつくることになった。その会社は加福土地株式会社という名で、大正12年(1923)に設立された。社長には材惣木材の9代目である鈴木鈴四郎が就任した。この鈴木鈴四郎は昭和6年(1931)まで社長を続けている。この加福土地がのちに社名変更して現・名古屋港木材倉庫株式会社になっている。

 昭和になると、戦争で空襲を2度も受けるという不幸に見舞われた。焼夷弾の集中落下で貯木が焼失したが、そこで失われたのは40万石とか50万石という材木だったという。

 戦後は廃墟からの出発になったが、その後に木材の復興需要があり、同社の再建も軌道に乗った。名古屋が戦後復興期になると、貯木場に対する需要が大きくなり、伊勢湾台風後に行政が飛島村に新しい貯木場を建設した。そこで名古屋港木材倉庫の貯木場の必要がなくなってしまった。

 そこで、昭和50年代前半に埋立工事を行った。出来上がったのは9万坪という広大な土地で、その土地活用が課題になった。そこで始めたのは、廃材を利用した木質チップの製造業だった。このリサイクル業は地球環境保護という点で意義があり、同社の大きな事業の柱に育っていった。また、ゴルフ練習場もオープンした。

 現在の業務内容は、名古屋港での木材荷役作業、倉庫業、木質チップ製造業、ゴルフ練習場などで、社名と一致していて、まさに「名は体を表す」といえる。社長の野間順一氏は、会社が長年生き残った理由について、「社名でわかるとおり、本業に徹したこと。土地活用に励んだことが良かったのでは」と話している。

 本社所在地は、名古屋市南区加福本通2‐1である。

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発刊に寄せて

序文

大正元年(1912)

大正2年(1913)

大正3年(1914)

大正4年(1915)

大正5年(1916)

大正6年(1917)

大正7年(1918)

大正8年(1919)

大正9年(1920)

大正10年(1921)

大正11年(1922)

大正12年(1923)

9月1日に関東大地震が発生。死者10万人
その頃、日本は 震災が経済に大打撃
その頃、名古屋は 銀行が取り付け騒ぎに遭う
その頃、名古屋は 大震災直後に大売り出しを挙行した、いとう呉服店
その頃、豊田は 佐吉が刈谷で織機試験工場を新設
その頃、名古屋は 遊郭が大須から大門に移転
その頃、世界は ドイツが超インフレ
<この年に誕生した会社>
“地味で堅実”を地でいく管工機材の商社 大清
<この年に誕生した会社>
「リスクを恐れるな」三兄弟の挑戦により発展 シロキ
<この年に誕生した会社>
薬局から始まり医療・福祉の総合企業へ ナンブ
<この年に誕生した会社>
材木商として港と共に生きる
名古屋港木材倉庫
<この年に誕生した会社>
学校給食の分野で実績 天狗缶詰

大正13年(1924)

大正14年(1925)

大正15年(1926)

昭和2年(1927)