12月25日午前1時25分、大正天皇が崩御した。48歳だった。
15日に宮内省が「天皇陛下御異例」を発表して以来、皇居二重橋前では病気回復を祈る国民の姿が見られた。帝劇や歌舞伎座などは、18日から興行を中止していた。
新聞はこぞって号外を出し、「天皇崩御」と「新帝践祚」を報じた。天皇の死去から2時間後、26歳の皇太子裕仁が皇位継承のための践祚式を行い、その後若槻内閣が新元号を「昭和」とすることを発表した。
名古屋では12月26日、つまり諒闇第1日目は、不安な慌しさと、元気なき姿に沈んだ。大須万松寺の興行場は全部絵看板を下ろし、電灯を消してひたすら謹慎した。各商店も新春のデコレーションを取り払ったり、黒布で覆ったりと、火が消えたようなありさまであった。
豊田佐吉は大正15年(1926)11月、株式会社豊田自動織機製作所を設立した。G型自動織機を製造販売するための会社だった。
豊田佐吉は、常に「人間には労働の義務がある。大体日本の如き貧乏国にありては資本家も無く労働者も無く一様に誰しも労働をなすべきである。労働は万人の為すべき自然の義務である」と考えていた。
ゆえに、佐吉の下では資本家とか労働者とかの区別は無く、二者渾然として一つであった。階級的観念などさらにもたず、一大家族主義の理想を目指した。佐吉の頭には、常に従業員全体の福利増進があった。
佐吉は、人物を育てることに最も力を入れた。カーネギーの部下に100万円以上の財産家が100人に達したということを聞いて、自分の部下からもカーネギーまでとはいかずとも、ぜひ立派なる人を相当の人数出したいものだと、常に口にしていた。
「従業員を幸福な人となし、立派なる国民にする」のが、佐吉の従業員に対する一貫した主義であった。だから佐吉の部下には、誰一人として不服を申し出るものはいなかったという。〔参考文献『豊田佐吉傳』〕
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