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  3. 大正15年 地元資本が大同合併して誕生 東陽倉庫

この年に誕生した会社

地元資本が大同合併して誕生 
東陽倉庫


戦後の復興で大きな貢献をした
白石勝彦

 堀川に掛かる天王崎橋を東西に通る道路のことを三蔵通という。その地名の由来は、江戸時代にさかのぼる。尾張藩の米蔵があり、3つの大きな蔵があったということで、そう呼ばれるようになった。そんな歴史ある土地を拠点にするのが東陽倉庫だ。

 江戸時代は、商人が自分で蔵をもっていたので倉庫業というものはなかったが、明治時代になると、近代的な倉庫が望まれるようになった。そこで日清戦争直前の明治26年(1893)に名古屋倉庫株式会社が設立された。発起人は名古屋市長の吉田禄在のほか、鈴木摠兵衛、白石半助、平子徳右衛門らだった。取締役や監査役には、奥田正香など名古屋商業会議所の会頭らが何人も入っているという豪華メンバーであった。営業拠点は、現・中村区名駅4丁目の名古屋クロスコートタワー(旧・中経ビル)の地である。ここは笹島にあった名古屋停車場に近い一等地であった。

 この名古屋倉庫は順調に発展した。その繁盛ぶりを見て、もう一方の倉庫会社・東海倉庫株式会社がライバル会社として、日露戦争後の明治39年に設立された。滝兵右衛門、森本善七など主に繊維商人が発起人であった。営業拠点は前述の三蔵(現・劇団四季の場所)で、その地は明治時代に内務省が転用後、東海倉庫が愛知県から払い下げを受け購入した。

 これに対抗する形で、名古屋倉庫も堀川端への進出をもくろみ、現・中村区名駅南2丁目(旧・水主町=ここが東陽倉庫の現・本社所在地)に営業拠点を設けた。

名古屋倉庫の鬼瓦
名古屋倉庫の鬼瓦

 この両者は、ライバル会社として激しく競い合いを演じたらしい。名古屋港が開港した時も、競い合って進出した。だが、両者は大正15年(1926)に合併して、東陽倉庫株式会社が誕生した。合併の経緯について白石好孝会長は「鉄道に近い名古屋倉庫と、堀川運河に近い東海倉庫が一つになれば、それぞれの特徴を生かした一大会社になる。その相乗効果を狙ったのではないか」と推察する。

 東陽倉庫の発足時の役員は、瀧定助(東海)が社長で、松下奈良三郎(名古屋)が常務だった。取締役は、名古屋側から神野三郎、上遠野富之助、富田重助、生駒重彦が、東海側から高橋彦次郎、恒川小三郎、森本三郎が就任し、バランスを取った。

 昭和時代に入り、金融恐慌などの試練があったが乗り切った。だが、戦争に突入して軍から全国の倉庫会社の統合を命じられ、昭和19年(1944)に日本倉庫統制の設立に参加することになった。戦争では激しい空襲により、倉庫の7割以上が灰燼と化し、十数名の社員が戦死病死などで再び職場に戻ることはなかった。戦後は統合を解消して、東陽倉庫に戻ったが、戦後の施設復興計画の推進と新しい地元経済紙・中部経済新聞の育成発展のため、名駅4丁目の土地を中部経済新聞社に売却することになった。

 戦後は、磯貝浩が社長を務め、白石勝彦(好孝会長の祖父)が副社長を務めた。勝彦は、昭和24年には社長に就任し、復興にまい進して、今日の会社の基礎を築いた。勝彦は名古屋商工会議所の副会頭も務め、中部経済圏の発展に貢献した。

 東陽倉庫は現在、東証第一部市場で上場している。社名に〝倉庫〟を残しつつ、売上高構成は、運送事業40%、倉庫事業25%、港湾運送事業20%、不動産事業6%他とし、中部地区を本拠地にしながら、世界中に展開する総合物流企業へと変革を遂げてきた。

 本社所在地は、名古屋市中村区名駅南2‐6‐17である。

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発刊に寄せて

序文

大正元年(1912)

大正2年(1913)

大正3年(1914)

大正4年(1915)

大正5年(1916)

大正6年(1917)

大正7年(1918)

大正8年(1919)

大正9年(1920)

大正10年(1921)

大正11年(1922)

大正12年(1923)

大正13年(1924)

大正14年(1925)

大正15年(1926)

大正天皇が崩御
その頃、名古屋は 佐吉が豊田自動織機製作所を設立
地域振興と家業の発展にまい進
岡谷惣助清治郎
<この年に誕生した会社>
地元資本が大同合併して誕生
東陽倉庫
<この年に誕生した会社>
時計商からアパレルへ。時流に沿う事業展開 リオグループ
<この年に誕生した会社>
「金の鳥を目指して翔ぶ銀の鳥」の思いを込めて 銀鳥産業
<この年に誕生した会社>
ガラス業界の再編を乗り越えて発展 宮吉硝子

昭和2年(1927)