9月1日午前11時58分、激震が関東を襲った。被害は東京・関東6県のほか、静岡・山梨・長野に及んだ。死者10万人という史上最大の地震災害をもたらした。
被害を大きくしたのは、地震に伴う火災だった。タイミング悪く、昼食の準備中だった家庭が多かったため、火の手がすぐ上がった。各地に上がった火の手は、折からの烈風にあおられ、東京の7割、横浜の6割を焼き尽くした。
パニック状態の中で、さまざまな流言が飛び交った。特に「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などという朝鮮人に関するデマは、翌2日になると、東京・横浜を中心にさらに広まった。人々は自警団を組織し、朝鮮人を迫害した。
ようやく5日になって、政府は、内閣告諭を出して朝鮮人に対する迫害を停止するよう呼びかけ、7日には全自警団を統制下に置いて虐殺を沈静化させた。だが、この間に殺された朝鮮人は6千人以上にのぼる。中国人も多数殺された。
震災後、がれきの山となった東京にはバラックが建ち、すいとん屋など急場しのぎの露天に人々の列が続いた。
大地震が起きる直前の日本経済は、大正9年(1920)の大恐慌と、それを糊塗する弥縫策で、既に容易ならざる状況だった。そこに大震災の打撃が加わったのだから、経済界が直面した苦難は甚大だった。
この地震の被害額は、一説によると45億円に達した。当時の通貨発行高が約11億円であったことを考慮すると、まさに国家存亡の危機と言ってもよかった。
震災地の経済活動は一時全く麻痺してしまった。こんな状況だから、政府も手をこまねいている訳にはいかなかった。まず9月9日の緊急勅令によって支払い延期を断行した。これは大正12年9月1日以前に発生し、同日から9月30日までに支払いをなすべき金銭債務で、債務者が東京、神奈川、静岡、埼玉、千葉の各府県および勅令をもって指定する地域に住所、または営業所を有する場合には30日間支払いを延期するものであった。要するにモラトリアムの実施である。
これを「震災手形」と呼んだ。これによって「鈴木商店」など、震災とは関係のない放漫経営の会社まで支払いを延期することにもなってしまい、のちに問題を大きくすることになった。
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