戦争が勃発する前の5月8日、名古屋では“天変地異”の予兆とも思われる現象が起きた。「近年に珍らしき現象、天色朦朧として、午前11時頃より、太陽赤く天は黄褐色を帯びて、煙霧の日輪淋しげに光なく没し去る。夜に入って月、現われれば、月また赤くして星見えず、怪訝の念を生ず。区域は東は北海道より、西は九州に及ぶ」と当時の人が記している。人々は大地震の前兆ならんと、浮説を流して市中を騒がした。
その後に、特に目立った天変地異は起きなかったが、ヨーロッパでの戦争のこともあり、人々は暗いムードに包まれ、街中に不景気な空気が充満した。
名古屋市役所の調査(9月)によれば「市内の空屋数四千四百戸、不景気の極点に達した感あり」とある。5月には名古屋莫大小信購販組合が釣編部会を開き、職工の工賃を1反の編立賃を2銭ずつ減額することを決議した。その後、職工の嘆願を受け入れて1銭を増加した。そして、運転機械の半数を1カ月間休止する決議をした。
農村でも、米や蚕繭の相場が暴落し、打撃を受けた。おかげで肥料を買い入れる資金に困る農家も増えて、施肥の不足となり、悪循環に陥った。
名古屋証券取引所は、年初こそ好調に始まったが、桜島が大噴火して火山灰のおかげで冷害になるとの予想になり、株価に悪影響をもたらした。海軍省の汚職・シーメンス事件も、株価低迷に拍車をかけた。そんな暗いタイミングであった頃に、ヨーロッパ大戦が拡大した。
人心は動揺し、株価は急落し恐慌相場となった。名古屋株式は、大正3年(1914)8月に株価40円割れとなり、明治27年(1894)以来の新安値に低落した。
しかし日本がドイツと国交断絶して参戦し、その連合国側の戦勝予想が高まったことで、株価は上昇に転じるようになった。
11月にドイツ領の青島が陥落したことが、活況に転じる契機になった。名古屋市民は11月7日に鶴舞公園で祝賀会を開催して沸き上がった。
ヨーロッパでの戦争の行方に注目が集まる中、名古屋では北浜銀行で取り付け騒ぎが起きた。
『愛知銀行四十六年史』という本がある。東海銀行の前身の一つである愛知銀行の3行合併を前にして、渡邉義郎頭取が編纂した社史だ。そこには大正3年(1914)の銀行取り付け騒ぎが記されている。
「我が国が独逸に宣戦したのは大正3年8月23日であったが、中京に於ける銀行の取付は19日の午後に始まって、大体21日の午後3時で鎮静に帰した。而して之が口火は大阪北浜銀行の支払停止によって切られた。当時北浜銀行の支店は名古屋鉄砲町にあって、本店の支払停止と同時に同支店も支払停止の張紙をしたのだ」(『愛知銀行四十六年史』)
この北浜銀行というのは、大阪の銀行でかねがね放漫経営が噂されていたようだ。北浜銀行は名古屋においても、広小路で八層閣という当時としては目を見張るばかりの高層ビルを建て、新築披露を終えたところだった。
支店長は中島万蔵という人で、遊び人として知られていた。芸妓を人力車に乗せて、自分が引いたりしたかと思うと、10円札をロウソク代わりに燃やすなど、派手で気ままな暮らしをしていた。ところが鉄砲町の旧店舗からの移転が完了しないうちに、支払い停止に追い込まれた。名古屋の堅実な人々にしてみれば「それみたことか…」という思いだった。
愛知銀行の渡邉頭取が嘆いた取り付け騒ぎは、実は大須で始まった。大須・旭郭の仲居で小坂井ジャウという人がいた。その小坂井ジャウは、明治銀行門前町南支店に押しかけたが、そこで引き出しを断られた。銀行が断った理由は定期預金だったかららしいが、そんな理屈は本人に通じなかった。
小坂井ジャウは、銀行の窓口で大声を上げてカウンターを叩きながらわめき散らし、銀行も根負けして引き出しに応じた。小坂井ジャウは旭郭に帰って、女性たちに「明治銀行へ行ったら、預金の引き出しを断られた。狂ったように頼んだら、ようやく渡してくれた」と報告した。それを聞いた女性たちが銀行に殺到したのである。その報告は旭郭内に大きな波紋を投げ、「われもわれも」と銀行へ押しかけた。
こうして、銀行の取り付け騒ぎが名古屋中に広まった。名古屋の銀行は、愛知・名古屋・明治の3行が有力で、それぞれ健全な経営をしていたのに大変な騒ぎに巻き込まれた。8月19日の午後既に明治銀行の旭郭、門前町南派出所の2カ所で取り付けになった。門前町南派出所のごときは取付人の列が七ツ寺の門前までも続き、巡査が厳然と列をにらみつつ取付人の順番を保たせるといったありさまであった。20日に至っては名古屋銀行門前町南支店、熱田支店、愛知銀行古渡支店、明治銀行本店までも取り付けられ、さらに同日は明治銀行豊橋支店も取り付けにあった。
預金者の疑惑を解消する最善の道は、現金を積み上げてみせることだった。日銀総裁の電命により、日本銀行名古屋支店は、これを極力救済することを声明した。愛知銀行の渡邉頭取は、「対策はたった一つです。ただ金を積んでみせることです。日銀からでも取り寄せて、どんと紙幣の山をつくってみせることで、そうすると、何も言わないでも、安心して帰っていく」と要望した。
21日には日本銀行名古屋支店が応急策をとり、同日1千100万円の貸り出しを行い、また、県当局も名古屋本店銀行の健全性をアピールする告諭を出すことによって、取り付け騒ぎは沈静化した。
この名古屋支店長中西万蔵は、大正7年、行金横領事件の被疑者となり、大阪控訴院において懲役5年の判決を受けた。大正9年8月6日、大阪の獄中に死んだ。
〔参考文献『名古屋商人史話』、『愛知銀行四十六年史』〕
銀行の取り付け騒ぎがようやく収まったのもつかの間、今度は市民が名古屋電気鉄道を焼き打ちするという騒動が起こった。9月6日午後6時、電車賃値下げ要求市民大会が鶴舞公園広場において開催された。続々と人が詰めかけ、1万数千人という群衆に膨れ上がった。みな、カンカン帽、浴衣がけ、シャツといういでたちだった。
この騒動は、新聞記者の一部が指導者になっていた。弁護士らが急きょこしらえた演台に登り、演説を始めた。
「料金が高すぎる」
「暴利をむさぼる名古屋電鉄に鉄槌を」
演説に拍手また拍手で、興奮は次第に高まっていった。興奮した群衆は二方に分かれ、暴徒化した。市内各所で電車を焼き打ちしたり、果ては交番を襲撃したりした。6日の夜から8日まで、夕刻から夜中まで各所で騒乱が続いた。
当時の市電は名古屋電気鉄道の経営で全45区間に分かれ、1区1銭の電車賃のほか1乗車1銭の通行税を徴収していた。この年の不況もあって高い料金への非難が高まり、市会も値下げ要求を決議した。大会終了後激高した一部の市民は電車に投石、放火し、横転させ、また那古野(なごの)町の名古屋電気鉄道本社倉庫を焼き払った。
この事件により名古屋電気鉄道は大幅に料金を値下げし、大正11年(1922)には市に移管した。
〔参考文献『名古屋商人史話』、『新修名古屋市史』〕
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