上海工場は、当初豊田佐吉の個人経営だったが、大正10年(1921)には法人化して株式会社豊田紡織廠とした。社長は佐吉だったが、西川秋次が常務取締役として経営の一切を任された。
また、息子の喜一郎は大正10年3月末に東京の下宿を引き揚げ、郷里の名古屋に帰って、4月に豊田紡織に入社した。喜一郎は佐吉の子として、「若」と呼ばれたり、喜一郎の頭文字をとって「キーさん」と親しみをもって呼ばれたりした。
そして7月、横浜から東洋汽船の「春洋丸」に乗船し、アメリカに向かった。初の欧米旅行であった。船上で、豊田利三郎や愛子らと撮影した写真には、学生服や作業服ではなく新調の背広を着た喜一郎が立っている。喜一郎は、利三郎夫妻と共にサンフランシスコ、ロンドン、オールダムなどを視察し、マルセイユから上海経由で帰国した。
欧米旅行中には、イギリス・プラット社で工場実習もした。
ソニーの創業者・盛田昭夫は大正10年(1921)、名古屋市で父久左エ門、母收の長男として誕生。盛田家は400年近く続く造り酒屋であり、昭夫は15代目の跡継ぎ候補だった。
昭和8年(1933)に愛知県第一師範学校付属小学校を卒業、13年に愛知県第一中学校を卒業し、17年には第八高等学校理科を卒業した。同年、大阪帝国大学理学部物理学科に入学した。
昭和19年には、海軍委託学生となった。学徒動員令により、海軍技術学生として横須賀の海軍航空技術廠支廠で勤務。その後、しばらくして、大阪帝国大学への出張が許可され、研究に従事した。9月大阪帝国大学理学部物理学科卒業。海軍技術見習尉官として浜名海兵団に入団、訓練を受けた。
昭和20年3月に戦時研究委員会で井深大と運命的な出会いをした。
終戦後の10月、東京・日本橋白木屋(元・東急百貨店日本橋店)内に、井深が東京通信研究所を設立したのを知り、井深と再会した。
昭和21年には、東京通信研究所を改組して、井深と共に資本金19万円をもって東京通信工業株式会社(現・ソニー株式会社)を設立した。〔参考サイト「盛田昭夫ライブラリー『盛田昭夫について』」〈http://www.akiomorita.net/〉〕
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