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大正10年(1921)チャップリンのサイレント映画『キッド』が大ヒット

その頃、名古屋は…上遠野富之助が名古屋商業会議所の会頭に就任

麹ケ池となっているのは現・中警察署
麹ケ池となっているのは現・中警察署 「大名古屋市街地図」

 名古屋商業会議所(現・名古屋商工会議所)では、鈴木摠兵衛が大正2年(1913)以来会頭に就任してきたが、病気を理由にして、この年に辞任した。後任として、1月8日、上遠野富之助(かどのとみのすけ)が会頭に就任した。また、瀧定助が副会頭に就任して補佐する形になった。4月1日には、松坂屋のルーツであるいとう呉服店の伊藤次郎左衛門祐民も、副会頭に就任している。

 そして、永年の課題だった新庁舎が中区大池町で完成した。8月20日に新庁舎に移転し、この披露の宴を24日に開催した。


大池町(現・中区千代田2丁目)で完成した名古屋商業会議所
の会館 『名古屋今昔写真集 第Ⅰ巻』

 名古屋は、この年が台風の当たり年になった。9月23日に襲来した台風では、熱田および築港方面で被害が甚大だった。死者多数で、家屋の全壊、半壊、堤防決壊、耕地冠水もあった。その直後の9月26日には、突如東南の大暴風雨が襲来した。

 そんな台風騒ぎが一段落した10月4日、名古屋商業会議所の首脳陣(伊藤次郎左衛門祐民ら)が欧米視察に出発した。

<どえらい人物>名古屋商業会議所の会頭に就任した上遠野富之助

上遠野富之助
上遠野富之助
『名古屋商工会議所百年史』

 上遠野富之助は本来、名古屋とは何のつながりもなかった。旧秋田藩士の家に出生、わずか17歳で小学校の校長となり、のち秋田改進党の機関紙「秋田日報」の記者に転じた。しかし、早稲田大学の前身、東京専門学校が開校されると、故郷を捨てて上京し、政治学科に入学、「報知新聞」の原稿書きや東京府会の書記などをしながら、明治19年(1886)に卒業した。

 富之助が名古屋に来たきっかけは、奥田正香だった。奥田は、富之助の才能を見込んで、名古屋へ来ることを熱心に勧めた。そこで名古屋商業会議所書記長のポストを与えられて来名した。

 明治42年には副会頭に就任、大正10年(1921)4月から昭和2年(1927)11月まで会頭を務めた。名古屋株式取引所理事、国際労働総会使用者代表も務めた。

 富之助は、引き際も見事だった。昭和3年、胃がんの死の床で言い残したとおり、当時50万円の価値とささやかれた中区南久屋町の私邸を名古屋市へ、数百点の蔵書を名古屋商業会議所へ寄付した。〔参考文献『名古屋商人史話』〕

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発刊に寄せて

序文

大正元年(1912)

大正2年(1913)

大正3年(1914)

大正4年(1915)

大正5年(1916)

大正6年(1917)

大正7年(1918)

大正8年(1919)

大正9年(1920)

大正10年(1921)

チャップリンのサイレント映画
『キッド』が大ヒット
その頃、世界は ドイツでベルサイユ体制打倒を叫ぶ過激派が台頭
その頃、日本は 原首相、凶刃に倒れる
その頃、名古屋は 不況で繊維企業の淘汰が進む
その頃、名古屋は 上遠野富之助が名古屋商業会議所の会頭に就任
その頃、豊田は 上海工場を法人化して株式会社豊田紡織廠とする
<この年に誕生した会社>
軍靴の靴底金具から靴のトップブランドに発展 マドラス
<この年に誕生した会社>
堅実な夫と節約家の妻で会社を盛りたてる 深田電機
<この年に誕生した会社>
ガラス製のコースターのメーカーとして始まった タケダ
<この年に誕生した会社>
木材の防腐技術を生かして発展
大日本木材防腐

大正11年(1922)

大正12年(1923)

大正13年(1924)

大正14年(1925)

大正15年(1926)

昭和2年(1927)