木曽川を北上すると、賤母(しずも)、大桑、須原、読書(よみかき)、桃山、大井など多くのダムがある。それを造った男が福澤桃介だ。
桃介は、武蔵国横見郡荒子村の岩崎紀一の次男として誕生し、明治16年(1883)、慶應義塾大学に入った。洋行させてもらえるというので、19歳で、恩師福澤諭吉のもとに入籍、喜び勇んでアメリカに渡った。同地の高等学校を卒業し、ペンシルバニア鉄道に入って、実務を見習った。そして、22年に帰国、諭吉の娘・房と結婚式を挙げた。
その後は、北海道の鉄道に入社、当時異例の高給だった100円を取ることとなった。やがて、東京支社へ転勤したが、病を得て、27年春から5カ年間療養生活を送った。病臥中に研究したのは株だった。株式売買で、10万円という多額の利益をあげて世間を驚かせた。
だが桃介は、一介の相場師に終わることなく、もっと価値ある事業に挑戦した。それは「元来、日本という国は資源の乏しい国だと言われている。しかしそれは違う。日本には立派な資源がある。人が多いことだ。雨が多いことだ。山が多い。海に囲まれている。このくらい立派な資源はない。日本は立派な資源国である」という彼の信念からであった。
桃介は、豊富に恵まれた水力を利用した電力事業こそ、彼の畢生の努力を捧げるものとして、常にこれを胸に抱いていた。大正7年(1918)9月木曽電気製鉄株式会社を設立して社長に就任してから、大正の末年に至るまでの約10年に近い歳月は、実に目まぐるしいまでに、各所各地に水力電気事業の手をのばし、電力王としての地歩を築いた時代であった。
中部地区が、のちに製造業として発展する基礎ともいえるエネルギーを確保した桃介の功績は、絶大である。
〔参考文献『財界の鬼才』〕
福澤桃介といえば、常にセットになるのが女優の川上貞奴である。夫婦ではないが、事実上の伴侶だった。
桃介が名古屋電燈の社長をしていた頃、東二葉町に和洋折衷の堂々なる邸宅を造り、それに二葉居と命名した。それを世間では二葉御殿と称した。現在の「文化のみち二葉館」は現在東区撞木町にあるが、それが移転復元されたものだ。もともとは東二葉町(現・東区白壁3‐10。中部産業連盟の北側近辺)にあった。
この二葉御殿に桃介は貞奴と住んでいた。2人は夫婦ではなかったが、桃介は貞奴のことを「さァだ、さァだ」とさを長く引っ張った呼び方をし、貞奴も「あなた、あなた」と呼び仲が良かった。
貞奴は、桃介の良き理解者であり、桃介の行く所には、影の形に添うように、どこへでも一緒について行った。
木曽の三留野(みどの)には、読書発電所建設のために働く社員や技術者用として、山の中に宿舎が建ててあった。不便きわまる簡素な山荘に過ぎなかったが、桃介がここへ出かける時には、貞奴もついて行って山の中で暮らした。
大井ダムの難工事を始めた時のことである。木曽川を堰きとめる大工事であるから難工事には違いないが、それにしても目もくらむような深い谷である。ワイヤロープはいかに太く強いといっても、工事に使うためのものだから人の乗るようには出来ていない。それに乗って空中を渡り、さらに谷底までロープで降りるとなっては、普通の者にはできない芸当であるが、桃介はやると言うのである。一緒にいた重役連中に乗らぬかと言っても、皆尻ごみをして誰一人乗ろうという者はいない。
だが、その時貞奴は、私がご一緒に乗りましょうと、平然として顔色一つ変えず、桃介と一緒に生命を綱一つに託して、はるか下の谷底まで下りたのであった。
この2人は、とにかく有名で、常に人々の話題をさらった。こんなエピソードが残っている。大正の初め頃、対華二十一カ条の要求が日本の外交上の大問題となって、天下の視聴を集めていた時のことである。時の人として外務大臣加藤高明が西下した。各新聞社記者は、競って箱乗りをして、外相の口から何かコメントをとりたいものと焦った。
だが、加藤高明は「外交上の重大問題を、汽車の中などで軽々しく話せるか。それよりも、次の箱に桃介と、貞奴が乗っている。そっちへ行った方が面白い記事がとれるぞ」と言った。
謹厳無粋をもって天下に聞こえていた加藤高明すら、こんな笑談を言う程に、桃介と貞奴は有名な存在だった。
〔参考文献『財界の鬼才』〕
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