稲沢市に矢合観音があるが、それを信仰して、その不思議なお導きにより創業してできた会社が株式会社大竹製作所だ。
大竹製作所は、明治44年(1911)の創業。海部郡大治村西条(現・海部郡大治町)に篤農家として知られた大竹家があった。その大竹俊翁と永一兄弟は、矢合観音の熱心な信者だった。その巡拝の道中で知り合った人が土臼に詳しかった。その薦められるままに、兄弟は土臼の製造に乗り出した。土臼のほかにも、人力除草機、万石、唐箕、製縄機なども扱った。大竹兄弟商会という屋号だった。俊翁が28歳、永一が20歳の時のことだった。
大竹兄弟は、発明の才能に恵まれ、次々に新商品を世に送り出した。中でも一世を風靡したのが足踏式稲麦扱機だった。大正3年(1914)に東京の上野公園で催された大正博覧会に出品したところ大きな反響をもたらした。ヒット商品になり、輸送する荷馬車の列が大治村から名古屋駅までつらなったとか。
大竹兄弟商会はこの成功で飛躍して、昭和5年(1930)に「合名会社大竹農具製作所」として法人化した。
次に生まれたヒット商品は、モーターで動く動力脱穀機だった。昭和8年に完成した。電灯線からの電力で使えるので、夜間作業に適していた。これは当時としては最新鋭の機械で、我が国だけでなく、東アジア全域に輸出した。
だが、好事魔多しで、昭和10年に俊翁が52歳の若さで他界してしまった。その後は永一が社長になって、経営にあたった。
日本はその後、太平洋戦争に突入して、敗戦を迎える。その激動の戦中戦後は、物資不足で営業もままならなかった会社が多いが、同社は農機具製造という仕事だけあって、営業を継続できた。
そして昭和25年に生み出したのがスチール製の動力脱穀機だった。当時は木製部分が大半を占めていた。スチールは錆の問題があったが、先進的な技術改良により克服した。
同社の社史『100年のあゆみ 開発機種』をみると、新商品が常に出ている。リスクを怖れない商品開発の連続だ。それは米作に関連するものばかりで、あくまでも農機具に専念している。
現在の社長の大竹敬一氏は、永一の孫にあたる。
本社は、愛知県海部郡大治町大字中島字郷中265。
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