「OMC」というアルファベットの社名よりも、旧社名の「尾上機械」といった方がわかりやすいかもしれない。尾上機械は平成23年(2011)に社名変更をしてOMCになった。
尾上機械は、明治43年(1910)の創業。創業者は尾上茂樹で、明治18年に東京で生まれた。尋常小学校を卒業したのが10歳の時で、本屋に小僧として奉公に入った。生来機械好きであった茂樹は、本屋の店頭に並んだ工学書をむさぼるように読んだという。
茂樹は長じて石川島造船所に見習い工として入社した。当時の石川島造船所は軍艦を造る最先端の技術を誇っていた。茂樹は働きながら、その高い技術を学ぶことができた。
茂樹は明治38年に横須賀の海軍に入営し、二等機関兵として配属された。石川島造船所で鍛え上げた腕が買われ、巡洋艦の機関室に配属された。
茂樹は、妻ぎんを連れて、明治43年に名古屋に転居した。当時は共進会が開催されていた。共進会は近代産業の粋が集ったイベントだっただけに、技術に詳しい茂樹にとっては関心の的だった。
茂樹は、名古屋という土地を選んで、明治43年に創業した。場所は中区不二見町で、屋号は尾上商会だった。当初の扱い商品は精米機だった。ある日、精米機の売り込みがはかばかしくなく、ヘトヘトに疲れて、夕方帰路についた時、通りすがりの農家で、たくさんの農民が集まって固い一枚の大豆粕をノミで砕くのに汗だくになっているのを目にした。
そこで茂樹は、大豆粕粉砕機の考案を思い付く。発明に没頭した結果、大豆粕粉砕機が完成した。それは農民の重労働を楽にする一大発明だった。「尾上式大豆粕粉砕機」という名前で売り出したところ、全国の農家から大歓迎されてヒット商品になった。
だが、好事魔多し。茂樹は大正11年(1922)に突然死した。38歳だった。周囲の人は、茂樹の突然の死を驚き悲しんだ。その葬儀は盛大だったという。
茂樹の亡き後は、妻ぎんが家業を守った。ぎんは社員とともに製品の開発に努めた。そのおかげで生前にもまして発展した。いかに発展したか、華麗な受賞歴で分かる。大正13年の愛知県全国農機具共進会で金牌を受けている。
尾上商会は、世代交代の時期を迎え、長男の隆治が昭和11年(1936)に入社した。隆治は、社名を「尾上機械製作所」に改めた。日本は戦争に突入したが、尾上機械製作所は幸いにも空襲で焼け残ることができ、戦後いち早く再建できた。日本は敗戦後に食糧難に悩まされた。そしてドッジラインによる金融引き締めにより恐慌に陥った。
昭和63年には、創業者の孫にあたる尾上昇氏が社長に就任。現在の製品は、配合飼料および肥料プラントの設計施工だ。その分野では国内で6割のシェアを誇る。
本社は、名古屋市中区富士見町8‐8。
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