この年は、幕末以来の課題だった関税自主権をようやく取り戻した。日米新通商航海条約が調印されて、実現した。
この年は、中国で辛亥革命が起きた。
10月10日、武昌で革命派が清朝の打倒を目指して武装蜂起した。この動きは中国全土に広がった。
日本政府は、既得権益を守るために、清朝側の立場に付いた。日本政府は、清朝の体制維持に躍起になったが、中国国民は清朝に対する怒りを燃え上がらせて、打倒した。12月29日には、孫文が革命政府の臨時大統領に就任した。翌日の明治45年(1912)1月1日に、中華民国の建国が宣言されることになる。
著者は今、名古屋市役所が出した明治時代の統計『名古屋市百年の年輪 長期統計データ集』を見ている。そこには明治から昭和、平成に至るまでの各種のデータが載っている。そこの明治44年(1911)の部分をみてみた。
明治時代は、官僚や教員の給与は月給になっていたが、現場で働く人々は日給だった。明治時代は月間26日ぐらい働いていたので、日給を26倍して月額換算して比較してみた。
大工の給与は、月額にして23円だった。毎日汗水垂らして働いても、ろくにお酒も飲めそうもない額だったようだ。紡績工場で働く人の給与は、男で12円だった。つまり大工の半額ぐらいなので、本当に食べていくのがやっとだった。まして、女は8円しかもらえなかった。名古屋市の幹部の給与も載っている。助役125円、医師49円、看護婦17円、事務員15円となっている。
金銭の価値がちがうので「何円」といわれてもピンと来ない。著名人の給与と比較しながら、この庶民の給与水準を考えてみたい。
石川啄木は、岩手渋民村の尋常小学校の代用教員をしていた当時に月額8円(明治39年)をもらっていた。その後新聞社を転々とし、最期は朝日新聞校正係として「月額25円+夜勤5回で5円」(明治42年)をもらっている。
夏目漱石は、明治40年に朝日新聞に入社したが、その給与は「月額200円+賞与」だった。同社の社長の給与が「月額150円」で、漱石は社長よりも高かったという。
『坂の上の雲』の主人公たちは、いくらの給与をもらっていたのだろうか? 記録によると、好古の給与は、次のように変遷する。
風呂焚きの仕事(日額天保銭1枚)
小学校助教(月額7円)
本教員(月額9円)
師範学校教員(月額30円)
東京予備員(月額8円)*陸軍士官学校に入るため
旧藩主久松公の輔導役としてフランスへ私費留学(年額1千円)
フランス官費留学に変更(年額1千600円)
次に秋山真之の給与は、いくらだったのだろうか? 毎月の給与の額は、調べ切れていないが、年金額を示す「明治39年、日露戦争の功により功三級金鵄勲章並年金700円および勲三等旭日中綬章を下賜」という記録がある。この「年金700円」というのは、突出した額で、凄い収入だったことは間違いない。
なお、正岡子規の日本新聞社での初任給は15円であった。本人が「低い低い」とこぼしていた額がそれだった。日本新聞社での給与はその後上がり、明治31年には40円になっている。
この給与に対して、物価はいくらぐらいだったのだろうか? 大須にあった「旭郭」の料金を紹介しよう。遊興料金は、娼妓は1昼夜で上1円50銭、中1円、下75銭だった。仕切り(ショートタイム)で、上37銭5厘、中25銭、下18銭7厘だった。芸妓は、上2円50銭、中2円、下1円60銭であった。客が登楼すると、線香に火を点けて時間を計ったので、遊興費は「線香代」とも呼ばれた。〔参考文献『愛知県 20世紀の記録 明治・大正』(風土社)〕
佐吉は、明治44年(1911)1月に無事帰国した。そこから工場建設のための資金集めに奔走した。だが、裸同然になった佐吉に対する世間の風は冷たく、苦労を重ねた。そんな中で佐吉を親友としてトコトン応援してくれたのは、服部兼三郎(服部商店)、藤野亀之助(三井物産重役)、児玉一造(三井物産名古屋支店長)らだった。必要な資金を確保できたのは、明治44年10月だった。
その資金で同月、名古屋市栄生で3千坪の工場敷地を借り入れて工場を新築できた。自動織布工場(豊田紡織の前身、現・産業技術記念館)がこれである。個人経営の小さな工場だった。織布業で得た利益を、自動織機の開発に充てようという計画だった。金を儲けるのは織布で、金を使うのは自動織機で、という訳である。
この豊田自動織布工場は、後に豊田紡織となる。この豊田紡織から分離独立して、豊田自動織機という会社が誕生したのは大正15年(1926)である。豊田自動織機は、昭和8年(1933)に自動車部を作り、それが昭和12年に独立して「トヨタ自動車工業株式会社」となった。
この時期は、佐吉の生涯を通じて一番大変だった時代だろう。発明家として、事業家として、生死の別れ時であった。佐吉は家族をまとめて工場に引っ越し、一般従業員と寝起きを共にした。それこそ寝食を忘れて発明に没頭した。
佐吉は、煮え湯を飲まされた豊田式織機会社との縁を切ることになった。佐吉と豊田式織機会社との関係は、利益の一部を会社から得ることになっていたが、実際には営業不振を理由に支払われたことがなかった。佐吉は、一時金をもらうことで、その契約を打ち切りにすると申し出た。これに対して豊田式織機会社が出してきたのは、8万円という一時金の金額だった。佐吉は藤野亀之助や服部兼三郎らと相談した上で、この条件で契約を打ち切りにすることを受け入れた。
これを聞いた周囲の人々は、なぜ8万円で打ち切りにしたのかと不思議がった。現に豊田式織機会社はその後、第一次世界大戦による特需のおかげで巨額の利益を出した。佐吉が契約を打ち切りにせずにいたら、その一部が佐吉のものになったはずだった。だが、佐吉はそんな事には少しもお構いなしだった。
子の喜一郎はこの頃、明倫中学の生徒だった。城山三郎は『創意に生きる―中京財界史』(文藝春秋)の中で次のように書いている。
「名古屋の町を西に出はずれた愛知郡中村大字栄の三千坪ばかりの土地にちょっとした工場の建設が進められていた。その工事現場へ、ほとんど日曜ごとにやってくる一人の中学生があった。秀でた眉、しまった口もとからは負けぬ気の性格がひらめいていた」
「彼は明倫中学校の四年生、上級学校への進学が目の前にせまっていた。しかし進学が許されるかどうか、まだ分っていなかった」「彼の父親が一年九カ月もかかって、資金を集め歩き、その苦心の結晶が、工場の建設となって現れたとき、誰よりもよろこんだのは少年であった。(久しい父の不振! しかし、この工場さえうまく行ったなら……)」
ここで書かれた通り、喜一郎はお金に困る父の姿を目の辺りにしてきた。佐吉は明治45年には藍綬褒章の栄に浴するのだが、この父子にとっては、それよりも目先のお金の方が問題だったかもしれない。
佐吉は、人を信じやすいがゆえに騙されて、裸同然で放り出された。悔しさの中から這い上がる父の姿から、喜一郎は男の生き方というものを背中で教えられてきた。
佐吉は後に、喜一郎に向かって「わしは織機の開発によって国に奉公した。喜一郎、お前は自動車を作ることで、国に奉公しろ」といった。喜一郎は、父を心から尊敬していた。だから、その父との約束を果たした。
盟友として佐吉をトコトン応援したのは、服部兼三郎だ。
服部兼三郎は、明治34年(1901)には宮町(現・中区錦3‐10。十六銀行名古屋支店の南近辺)で店を構えていた。
その宮町時代に勤めていたのが石田退三である。戦後にトヨタ自動車を再建した、あの石田退三である。石田は次のようなエピソードを残している。
ある日、皆が忙しく立ち働いている店先へ、古ぼけた小さな袋を手首にかけ、もそっとした恰好のおっさんが一人はいってきた。物もいわず、だれにもあいさつせず、黙ってわたくしらのすわっている前の椅子に腰をおろした。―中略―。
店の出入りや街から流れ込んでくる喧噪を知らぬ気に、椅子によりかかったまま、敷島(煙草)をふかして、何事かをじっと考え続けている。年齢のほどは五十歳前後で、職業のほどもむろんつかみどころがない。なんにしても一種異様な人物である。
そこへ、外から帰ってきたのか、奥から出てきたのか、しばらくたって服部社長が、ヤアと一声かけて現れた。その人はちょっとしたお辞儀も返さない。
「よう、今日もまたお金ですかい」
(『商魂八十年石田退三』)
このようなやりとりがあって、その日は25万円借りていったという。借用証書もなしにである。退三はその大金に度肝を抜かれたという。今日では数億円に匹敵するお金だったという。これが退三と佐吉との出会いだった。
退三は、もちろん自分が後にトヨタ自動車の再建に取り組むことになるとは知るよしもなかった。
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