堀川沿いには、材木商が並んでいるが、そこから始まって現在ではトヨタ系の有力部品メーカーに発展しているのがタケヒロだ。
タケヒロの創業者は竹内廣吉といい、明治12年(1879)生まれ。幼くして材木商の竹忠商店に丁稚奉公に上がり、20年以上勤務した後で、別家を許されて、明治42年に独立した。時に30歳だった。屋号は「竹廣商店」だった。商才があり、その後先発の同業者をどんどん追い越して商いを拡大していった。大正13年(1924)には合資会社竹廣木材店になった。
創業の地は、下堀川町(現・中区松原2丁目25番地)で、堀川沿いだった。昔の堀川は材木が浮かんでいて、それを避けるように船が往来して渋滞がひどかったが、この地は中川運河ができて以来、中川運河を利用することで渋滞せずに運搬できるようになったこともあり、発展のバネになった。ちなみにここは現在も竹廣株式会社が所有している。
竹廣商店は昭和13年(1938)、廣吉の長男鑛一郎が二代目になった。この鑛一郎がトヨタ自動車との接点を築いた。取引先だった愛知銀行(東海銀行の前身の一つ)の紹介で豊田喜一郎を紹介された。自動織機のレース(心材)に使われる外材を納入するようになった。
面白いエピソードも残っている。喜一郎の案内により、まだ原野だった論地ケ原(現在の本社工場)を見せてもらったことがあるという。馬で後ろに乗せてもらい、原野を走りながら、喜一郎は大自動車工場建設の構想を語ったという。
鑛一郎は「ここは道路もないので不便では…」と問うたところ、喜一郎は「何を言っている。俺は自動車を造ろうとしているのだ。道など造れば良い」と返されたという。そんな経緯で、昭和12年のトヨタ自動車工業の設立以来の取引先になっている。
トヨタは昭和24年に経営危機に陥り、支払いもままならなかったが、タケヒロはためらうことなく、取引継続の道を選んだ。そのことが今日の発展につながっている。
伊勢湾台風では、直接被害を受けなかったが、仕入れ先の工場が冠水してしまった。だが、鑛一郎は手を尽くして確保して、トヨタ自動車向けの納品を止めることなく継続できた。このことでも信頼を得た。
昭和37年には、安城市和泉町北大木4番地14に本社工場を建設した。そのあたりから自動車部品の製造にいよいよ本腰が入ってくる。
昭和54年には、鑛一郎の長男博昭氏が三代目社長になった。その社長交代は創業70年周年式典で発表され、名古屋観光ホテルで挙行されたが、その席には豊田英二社長(当時)も祝辞に参列した。
昭和62年には株式会社タケヒロに社名変更した。
平成19年(2007)には、竹内博昭氏が会長になり、社長として福岡節男氏を迎えた。さらに平成23年には福岡節男氏が会長になり、山河和教氏を社長に迎えた。
現在はトヨタ系の有力部品メーカーになっており、内装部品を中心に製造している。
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