長者町の老舗呉服問屋として知られる井上は、明治43年(1910)の創業だ。
創業者は、井上銀次郎という。銀次郎は明治17年に岩倉で生まれた。名古屋の長者町にあった呉服屋に丁稚奉公に上がり、修業に励んだ。主人からは「宗吉」という名前を付けてもらった。
永年の勤務が認められ、明治43年に26歳で独立した。創業の地は、東万町1‐7(現・中区丸の内2丁目。地下鉄丸の内2番出口を出てすぐ東側)だった。
銀次郎は、関東方面から布の切れ端を仕入れ、それを衣服として仕立て上げ、小売店に卸した。
銀次郎は、万事において几帳面だったようだ。この銀次郎が遺した分厚い資料が残っている。税務署に出してきた納税申告書だ。創業年の明治17年からの分が残っている。収入とか、経費とか、利益金とかが載っている凄い記録だ。
銀次郎の後は、昭和8年(1933)に長男の銀太郎が継いだ。碁盤割は空襲に遭って全部燃えてしまった。井上の本店もすべて灰になった。銀太郎は廃墟から立ち上がり、商いを再開した。終戦直後はもの不足の中で、良く売れたようだ。銀太郎は、仕入れ先を京都や丹後などの関西まで伸ばした。
銀太郎は、昭和24年に法人化して、株式会社井上商店にした。そして34年には下長者町3丁目4番地(現・中区錦2丁目14番地)で、鉄筋5階建のビルを新築した。
現在は、銀太郎の長男である敬象氏が社長を務めている。敬象氏は、大卒後に同業社で修業した後で、井上に入った。入ってすぐ京都の出張所を立ち上げた。社長になったのは昭和62年だった。だが、その頃から呉服の市場がどんどん縮小するようになり、同社の売上高も減少傾向に陥った。敬象社長は、再建に奔走する中で、取引先に倒産されたこともあった。
同業の呉服屋が廃業する中で店を守ってきた敬象社長の信念は「変わり続けることで老舗となる」というものだ。時代の変化を恐れず、時代に合った価値を提供し続けるように〝変わり〟続けることで、老舗になる」というのだ。
敬象社長が再建のための起死回生策として打ち出したのは和雑貨の製造販売だった。販売は当初困難を極めたが、東京の展示会に出すなど、新たな販路開拓に努めたおかげで、今日では、それが大きな柱になっている。
現在は、呉服卸が6割、和雑貨が4割占めている。呉服の市場は年々縮小してきたので、最近は下げ止まりつつあるという。「これからは逆に残存者利益も期待できるかもしれない」というほど。
「こつこつ、飽きずに続ける、だから商いという」という敬象社長の言葉は、創業者銀次郎から受け継がれてきたDNAだ。
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