エレキギターのアイバニーズ、ドラムのタマといえば、世界中のミュージシャンに愛されている楽器だ。それを創っているのが星野楽器だ。
星野楽器は、明治41年(1908)に星野書店の楽器部として発足した。学校の音楽で使用されるようになったオルガンなどを売るのが始まりだった。著者が作成して配布している明治時代の名古屋古地図をみると、本町5丁目(現・中区錦3‐1。十六銀行名古屋支店の南側)に「星野書店小賣部」があるので、そこが発祥の地のようだ。
その楽器部は、昭和4年(1929)に分社して合資会社星野楽器となった。その創業者は、星野義太郎と妻多満だ。義太郎は明治18年生、多満は明治26年まれだったから、義太郎は44歳、多満は36歳だった。ドラムの「タマ」ブランドは、多満からきている。
その間に生まれた長男は良平で、明治45年生まれで、17歳だった。この良平は傑物だった。市立名古屋商業学校を卒業とともに父の仕事を手伝った。良平は英語が堪能で、中学校の時にすでに英語で商業文を書くことができた。この良平の才能のおかげで、世界に向けて輸出するという国際企業になった。
星野楽器は戦前、義太郎、多満、良平という3人が中心になって、事業を伸ばした。ギターを製造して、30人ほどの職人を雇用するまでになった。戦前においても、古賀政男ブームのおかげでギターの人気があったという。
戦前において、星野楽器の精神とも言うべき「進取の気性」「既成概念にとらわれない」「常に海外を視野に入れる」は、実践されて確立されていたというから凄い。この精神が、財産となって、それ以後の幾多の困難を乗り越えていくことが可能になった。
戦争は、星野楽器にも打撃を与えた。会社や住居は全焼してしまった。だが、戦後すぐ再建に向けて始動した。再建の地は、本重町だった。本重町とは、蒲焼町(現在の錦通)の一本北側の道路だ。
戦後は、良平が昭和35年(1960)に49歳でガンにより亡くなるという不幸に見舞われた。だが、次男純平、三男政雄、四男義裕が一致団結して盛り立てた。純平は語学力を生かして海外バイヤーとの交渉、政雄は楽器製造を担当した。
戦後の音楽は、ビートルズの登場によりエレキギターがブームになった。星野楽器は、戦前からそうであったように輸出に力を入れた。アメリカでは「日本製は安価な粗悪品」というイメージが強かったので営業に苦労したが、品質向上により徐々に評価されるようになった。
星野楽器は、昭和52年に大事件に見舞われた。アメリカギブソン社がコピー商品であると訴訟してきたのだ。この訴訟は「今後コピー商品は販売しない」ということで決着した。これ以降、オリジナルなデザインのギターの開発に特化したおかげで、逆に優秀な製品を創り出すメーカーに飛躍することになった。
星野楽器は現在、四男義裕氏が会長、田中俊次氏(義太郎と妻多満の娘の子)が社長になっている。
本社は、名古屋市東区橦木町3‐22。
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