『氷山のごとく』という小説を覚えておられるだろうか? 花登筺が昭和56年(1981)に中日新聞に連載したものだ。北海道から名古屋の繊維問屋街長者町へ奉公に上がった主人公の輪吉が持ち前の才覚と根性で大商人になるまでを描く商魂ドラマだ。
この小説には「丹羽屋」などの名前が出てくる。モデルになったのがアパレルの丹羽幸だ。花登筺と丹羽吉輔(丹羽幸の二代目社長)は大学の同級生で、そんな折から丹羽幸が花登筺に資料を提供して、小説の題材になった。
小説の主人公のモデルにもなった丹羽幸の創業者・丹羽幸一郎は、明治13年(1880)に東春日井郡小牧町(現・小牧市)で生まれた。丹羽家は、武将丹羽長秀の一族であったが、関ヶ原の合戦で西軍に付き、その敗戦によって小牧の地に落ちのび、帰農した。幸一郎の父金五郎の代で反物、糸などの地方行商を始めた。
幸一郎が生まれた頃には、地元の有力者になっていた。だが、丹羽幸一郎は四男だったということもあり、若い頃から独立を目指した。18歳にして、両親の止めるのを振り払い、家出同然で上京した。日本橋にあった太物問屋の山郷商店に丁稚奉公に上がった。幸一郎は、朝4時に起き、夜更けても仕事の手を休めなかった。次第に主人から目を掛けられるようになり、異例の早さで羽織の着用を許された。
商道を修得する目標に向かって精進していた幸一郎だったが、召集令状が来た。日露戦争だった。6年間の軍隊生活の後、幸一郎は名古屋に帰り、明治41年から商売の道に入った。
創業の地は玉屋町4丁目(現・中区錦3。旧東海銀行本店)で、洋傘の販売を始めた。そして大正時代に入ると、下長者町(丹羽幸の現本社の向かい側)に移り、洋反物の販売に移った。丹羽幸一郎は、商売の革命児だった。当時の長者町は〝貸し売り問屋〟が一般的だったが、そこから〝現金問屋〟に転換した。薄利多売で売りまくった。
丹羽幸一郎は、第一次世界大戦後の恐慌で、逆に大いに商いを伸ばした。恐慌で物価が暴落したので、商品を抱えていた店は窮迫した。だが、丹羽幸一郎は在庫が少なかったので打撃を受けなかった。安くなった商品を逆に買いまくり、大安売りで売りまくった。まさに面目躍如だった。
一代の風雲児・丹羽幸一郎は昭和35年に永眠した。81歳であった。店は昭和24年に株式会社丹羽幸となり、その時から子の丹羽吉輔が社長になっていたので、バトンタッチはすでに行われていた。この二代目社長は凄い手腕があった。
三代目社長の幸彦氏は、堅実経営を貫いた。その幸彦氏も平成19年(2007)に会長となり、小玉元章氏が社長になった。
本部は、名古屋市中区錦2‐8‐17。
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