福澤桃介は名古屋人ではないが、名古屋の発展に大きな貢献をしたので、ここで紹介させて頂く。
桃介は、貧困な家庭に生まれ、子供時代は裸足で学校に通ったほどだった。だが、神童として誉れ高く、支援を受けて、慶應義塾に進学した。慶應義塾の運動会で桃介の眉目秀麗ぶりが福澤諭吉の妻錦の目にとまり、婿養子となることになった。慶應義塾を卒業すると渡米し、ペンシルバニア鉄道の見習いをした後、帰国して諭吉の娘房と結婚し福澤姓に変わった。帰国後は、北海道炭礦汽船、王子製紙などに勤務した後、株式相場で成功して財を成した。
その桃介は、慶応義塾の先輩である矢田績に招かれ、名古屋電燈の株を買い占めて名古屋に乗り込んだ。名古屋ホテルで矢田績・下出民義らと協議しての行動だった。
桃介は、旧士族が中心になって設立した名古屋電燈の経営陣と対立した。桃介が推進した名古屋電燈と名古屋電力の合併は、東陽館を会場にして議論したが、決裂して警官も出動した。桃介は辞任して名古屋を後にした。
桃介はその後復帰して社長に就任してダム建設に邁進した。大井発電所は本格的な発電所で、安価な電力を供給できるようになり中部地区のインフラ整備に貢献した。そのおかげで「日本の電力王」と呼ばれるようになった。
また、東邦電力(現・中部電力)、東邦瓦斯、愛知電気鉄道(現・名古屋鉄道)などの経営にも貢献した。大同特殊鋼などの一流企業を次々に設立した。
後年は川上貞奴と同居し、夫婦同然の生活であった。「二葉御殿」を建てる前は、1人の時は名古屋ホテルで、貞奴と一緒の時は秋琴楼もしくは上園町の丸文で泊まった。
桃介の愛人だった川上貞奴は、日本の女優第一号になった。若い頃は芸妓で、伊藤博文に寵愛された。夫の川上音二郎が死去した後は、昔の恋人だった福澤桃介と夫婦同然の間柄になった。
貞奴は経営の才覚にも恵まれ、大曽根に輸出向け最上級の絹を生産販売する「川上絹布株式会社」を設立して自ら経営した。
「二葉御殿」は、桃介と貞奴が共に暮らした家だ。創建当時は、文化のみちエリアの北端、東二葉町にあり、2千坪を超える敷地に建てられ、和洋折衷の建物は名古屋財界に入れない外様派が集結して「二葉御殿」と呼ばれてサロンになった。
ここは財界サロンのような場になった。よく来ていたのは下出民義、兼松煕、藍川清成、八木平兵衛、村瀬賢二など個性的な人物が多かった。
下出民義は桃介が引き上げた人物だ。桃介は大正5年(1916)、名古屋電燈から製鋼部門を分離して「電気製鋼所」を設立したが、この時「電気製鋼所」の社長になったのが下出民義であった。下出は桃介とともに電力事業の発展に尽くし、大正10年、大同電力を発足させ、大同製鋼の設立に尽力した。昭和6年(1931)には、民義の子息、下出義雄が大同製鋼の社長に就任している。
兼松煕は、官界、政界を経て実業界に転じ、明治39年(1906)に名古屋電力を創立し、奥田正香や福澤桃介に重用され、晩年は豊田式織機社長を務めた事業家である。
藍川清成は、名鉄を築き上げた男として知られている。岐阜市藍川町に生まれた。東大を卒業し、名古屋で弁護士業を開く。電灯電力と電気鉄道の黎明期で名古屋電燈の顧問弁護士であったことから、後に桃介と懇意になり、政治家志向から実業家を目指すようになった。
桃介と貞奴は、ここで田舎芝居ではあったが、忠臣蔵を演じた。出演するのは、自分たち自身だった。わざわざ金屏風を立てかけ、皆で演じたが、肝心主役の桃介は案外覚えが悪く、セリフさえまともに言えなかったので、大きな文字でセリフを貼り付けていたという。
現在東区に文化のみち二葉館があるが、それは移築したものであって、建っていた場所とは異なる。
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