大正9年(1920)の恐慌では、その対応をめぐり、明暗が生じた。一代の風雲児・服部兼三郎の場合は、残念ながら暗だった。兼三郎は相場下落に耐え切れず、6月3日に自殺を遂げた。
兼三郎は、かつて大正3年の相場失敗に懲りて、しばらく自重していたが、大戦景気の盛り上がりに生来の相場師の血が騒いだ。再び相場の舞台に踊り出てきた。強気の彼は「先物買い」「現物売り」で定期相場に臨んだ。糸値の先行き値上がりを見込んでのことである。その取引量も多かったのである。
3月、兼三郎は弱気でふさぎこみ、また腎臓が思わしくないこともあって、自宅に引きこもりがちになる。
そして市況の破綻がいよいよ明らかとなったのは、4月7日の増田ビルブローカー銀行の倒産であった。市場はパニックに陥った。
一代の風雲児といわれた兼三郎の苦境ぶりを、大番頭の三輪常次郎が日記で詳細に描き残している。興和の社史には、その日記が載っている。
このように常治郎が主人兼三郎を気遣う様子がつぶさに伝わる内容だ。常治郎にしてみれば、自分を13歳の時から預かり育ててくれた恩人であり、言ってみれば親のような存在だった。
だが、ついに最悪の事態になってしまった。6月3日の未明午前4時、常次郎宅に時ならぬ電話が鳴り響いた。声の主は兼三郎の夫人、服部政だった。常次郎はその知らせに思わずわが耳を疑った。服部が自宅の庭で首をつり自殺した、というのである。中区矢場町の服部邸へ駆け付けた彼は、そこで主人の変わり果てた姿を眼前にして言葉を失った。
翌4日、服部邸において緊急重役会が開かれ、専務服部兼三郎の葬儀を社葬として執行することを決め、あわせて取締役三輪常次郎を専務に互選した。
このあたりの様子は、社員として兼三郎に仕えていた石田退三も、自伝の中で次のように興奮気味に記している。
『えらいことになりおったあ、オヤジさんが死んでしもうたあ……』
大正9年の6月の一夜、名古屋の『カネカ』本店から、突然ころげ込むように、こんな電話がかかってきた。電話の主はあわてふためいた三輪支配人である。
晴天の霹靂とはまさにこのことである。
居あわせた支店の全員は、一瞬棒をのんだように立ちすくんだが、むろんわたくしもそのうちの一人であった。(『商魂八十年:石田退三自伝』)
「名古屋新聞」は兼三郎の死を大きく報じている。
『心配は要らぬ』と唯一言 力強い言葉を残して服部兼三郎氏遂に逝く
涙のやうな初夏の雨そぼ降る日綿布界の覇王と謳はれた兼カ事服部商店主人服部兼三郎氏は綿糸崩落の報を耳にしながら『心配は要らぬ』と唯一言、力強い言葉を残して3日午前5時脳溢血にて微笑み乍ら冥路の旅に立った、享年51(「名古屋新聞」大正9年6月4日付)
兼三郎は、自らの死に臨んで、家族、常次郎、取引先に宛てて、12通にも及ぶ遺書を遺していた。遺書の主な内容は次のとおりである。
1、三輪常次郎は専務として、今後の万事をしかるべく処理すること。
2、服部家は会社経営については口を挟んではならない。
3、自分の個人財産は全部会社に提供する。
4、自分に掛けた生命保険の受取金は、半分は家族、半分は会社で受け取ってほしい。
あくまで「無私」に徹し、自らの興した暖簾を守ろうとする壮烈なまでの意志がここにあった。そして、その暖簾の再興者として常次郎に一切を委ねたのである。
恐慌の混乱の中、売り先である問屋筋からの入金が久しく途絶えていたところ、兼三郎の死が報じられるや、これらの業者は驚いて続々に債務の弁済に応じてきたのである。あくまで商売の信義を重んじ、いかに損が出る時でも契約は誠実に履行した兼三郎の徳望がなし得たわざであった。
問題の第一は、やはり株式会社服部商店のバランス・シートであった。損益対照でどれだけの負債があり、どれだけの資産内容が残されているかであった。社史には、「債権、債務を決済して、尚ほ優に1千万円の資産を有する状態でありて、資産状態から観察すれば何等悲観すべき点はないと信じます。」とある。正味資産(すなわち貸借対照表の「資本の部」)は実質1千万円を超えていたのである。つまり、それだけ前期までの蓄積が厚かったわけである。
葬儀は、6月5日真宗大谷派名古屋別院において、会葬者多数で盛大に執り行われた。〔参考文献『興和百年史』、『商魂八十年:石田退三自伝』〕
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