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  3. 大正9年 工業用酸素の草分け 江場酸素工業

この年に誕生した会社

工業用酸素の草分け 
江場酸素工業

 創業者は、江場一雄という。一雄は、尋常高等小学校を卒業して奉公に上がり、そこでカーバイド工業薬品と出会った。そしてカーバイドや溶接器具を売る溶接材料店を創業した。場所は名古屋市中区流町(現・名古屋市民会館の東側)だ。創業年次は、「大正9年(1920)」とか「12年」とか諸説ある。当時は溶材店がまだ少なく、草分けだった。

 一雄には商才があり、各地の海軍工廠への売り込みに成功した。当時は国産奨励の時代で、横須賀の工廠から「自動切断器を研究製作して納入せよ」と命じられ、苦心惨憺の末に開発して納品したところ大いに評価されたという。昭和16年(1941)には江場機工株式会社になった。

 戦後は、一雄の長男の「工」の時代になる。工は大正12年生まれで、早稲田大学理工学部を卒業して、その後も同大学院に残って電気・機械の研究に打ち込んだ秀才だった。昭和23年に家業に入った。当時はガス安全器の生産に従事したという。このガス安全器は「江場式」と言われて全国的に知名度があったという。

右から、江場友美、千枝子、千津子、正樹、工、仁美
右から、江場友美、千枝子、千津子、正樹、工、仁美

 一雄は昭和42年に亡くなり、同時に工が社長に就任した。その後、工は父とは違う学究肌のキャラクターながら、社業を伸ばした。「これからの溶材商は昔のような個人中心のやりかたではなく、企業としての発展が必要だ。そのために人を大切にすること。利益を社員に還元して、企業との一体感を育てることが肝要」と抱負を語っていた。

 また、工の妻は千枝子といった。千枝子は、工と二人三脚で会社を伸ばした。千枝子は後継者となる子供たちに対して「社員と同じように勤務するように」とか「会社があるからこそ食べていけるのだから、第一に大事なのは会社と社員だ。自分は最後に過ぎない」などと、たびたび厳しく諭したという。

 工の後継者は、長男正樹だった。正樹は昭和27年生まれで、55年に家業に入り、平成5年(1993)に社長になった。正樹は名古屋市港区に新本社・充填所を完成するなど積極経営を行った。だが、好事魔多し。正樹は平成16年に急逝した。心不全だった。まだ51歳という若さだった。既に工も平成11年に亡くなっていたので、江場家にとっては試練だった。

 正樹の急逝の後、社長になったのは妻千津子氏だった。千津子氏は会社で経理を手伝っていたものの、自分で社長業が務まるか不安だったという。だが、周囲は千津子氏を励ます向きが多かった。一雄と工の時代、江場酸素からたくさんの若者が独立したことから「江場学校」とも言われていたのだが、その〝生徒〟のような業界人、そして社員がこぞって千津子氏を応援した。

 江場酸素工業は、この千津子社長のもとで発展した。溶接に使う工業用酸素や医療用酸素、溶接材料などで安定した業績をあげている。顧客は、地元の自動車製造業界などだ。

 千津子社長は次女である友美氏を後継者に指名している。平成31年には社長交替する予定。友美氏は「社員の皆さんが入って良かったと思える会社であり続けたい」と抱負を語る。

 なお、医療用酸素の大手であるエバ(本社所在地は名古屋市天白区)創業者・江場康雄氏は、一雄の弟の子供に当たるという。

 本社所在地は、名古屋市昭和区高辻町5‐2である。

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発刊に寄せて

序文

大正元年(1912)

大正2年(1913)

大正3年(1914)

大正4年(1915)

大正5年(1916)

大正6年(1917)

大正7年(1918)

大正8年(1919)

大正9年(1920)

戦後恐慌に突入
その頃、世界は 国際連盟が発足。日本が常任理事国へ
その頃、名古屋は 堅実経営で恐慌を乗り切った3大銀行
その頃、名古屋は 大安売りを実施して市民の喝采を浴びた、いとう呉服店
その頃、名古屋は 一代の風雲児・服部兼三郎が商売に失敗して自殺
服部商店を再建して興和の基礎を築いた三輪常次郎
その頃、豊田は 上海工場が完成
<この年に誕生した会社>
〝身の丈に合った経営〟に徹する住宅総合商社 丸美産業
<この年に誕生した会社>
工業用酸素の草分け 江場酸素工業

大正10年(1921)

大正11年(1922)

大正12年(1923)

大正13年(1924)

大正14年(1925)

大正15年(1926)

昭和2年(1927)