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この年に誕生した会社

昔ながらのドブ板営業でIT時代を生き残った 
ワキタ商会

 大須に行くと「フォトシティワキタ」という大きな看板が目に入るが、同社も大正8年(1919)の創業という老舗だ。

 創業時の屋号はワキタ写真材料店で、場所は現本社と同じく名古屋市中区4丁目であった。明治や大正時代において、写真館というのは先端技術を身に付けた先生のような存在だったが、その先生に材料を販売するのが仕事だった。

 店には後継者がいなかったため、堀江四郎が昭和18年(1943)に引き継いだ。四郎は明治44年(1911)の生まれで富山県出身だった。朝日新聞社に勤務していたが、脱サラして経営者になった。この四郎が事実上の創業者といえるかもしれない。

 戦後は、写真材料の販売のほかに、病院にレントゲンのフィルムを納めたり、レントゲンの現像をしたりして、事業を再開した。

 四郎がこだわっていたのは、誰にでも分け隔てなく声をかけることだった。「病院に営業に行った時は、キーマンだけでなく、守衛や清掃係の方に至るまで、どなた様にもご挨拶しなさい」と、営業職に口を酸っぱくして言っていたという。

 四郎の後は、長男宏輝氏と次男陽平氏が二人三脚でやってきた。四郎は息子たちに対して、「目先の利益を追うよりも、ヒトを大事にしろ」「当社に定年はない。働ける限り働いてほしい」と教えた。

 長い歴史を誇る会社だけに山あり谷ありだったが、中でもピンチは平成時代に入ってからデジタル化の波でフィルムが無くなってしまったことだった。フィルムは会社を支える一番の商品だっただけに、その売り上げが無くなることは痛かった。

 この窮地を救ったのは、四郎が残したドブ板の営業スタイルだった。顧客との人間関係を重視した昔ながらの営業スタイルは、デジタルの時代においても有効だった。商品構成を時流に合わせて転換したが、昔からキヤノンや富士フイルムと築いた太いパイプがあったことも役立った。

 現在は、①メディカル(医療用デジタル機器)、②OA(コピー機・パソコン)、③産業機材(非破壊検査機器)、④家電、⑤カメラ・時計・宝飾品、⑥技術サービスという事業部をもつ。中心はメディカル関係で、PET・CTなど放射線科で使う分野に強い。

 また、宏輝氏の長男大介氏が後継者としての道を歩んでおり、バトンは渡されつつある。

 本社所在地は、名古屋市中区大須4‐10‐68である。

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発刊に寄せて

序文

大正元年(1912)

大正2年(1913)

大正3年(1914)

大正4年(1915)

大正5年(1916)

大正6年(1917)

大正7年(1918)

大正8年(1919)

アメリカが対日戦を想定したオレンジ計画を立案
その頃、日本は 秋山真之が死去。「米国と事を構えるな」と遺言
その頃、世界は 全責任をドイツに押し付けてベルサイユ条約調印
その頃、日本は 大戦中をもしのぐ好景気が到来したが…
その頃、豊田は 佐吉が再度の上海視察へ
<この年に誕生した会社>
「店はお客様のためにある」を信条に あかのれん
<この年に誕生した会社>
電球の傘にはじまり松下幸之助との縁も 富永電機
<この年に誕生した会社>
顧客のニーズに応えた堅実経営
ガラス問屋のウチダ
<この年に誕生した会社>
“水道の時代”を見越しポンプ市場を開拓 川本製作所
<この年に誕生した会社>
昔ながらのドブ板営業でIT時代を生き残った ワキタ商会

大正9年(1920)

大正10年(1921)

大正11年(1922)

大正12年(1923)

大正13年(1924)

大正14年(1925)

大正15年(1926)

昭和2年(1927)