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この年に誕生した会社

“水道の時代”を見越しポンプ市場を開拓 
川本製作所

 川本製作所というよりも、川本ポンプといった方がなじみがあるかもしれない。名古屋市中区上前津の有名なポンプ屋さんだ。

 川本製作所は、大正8年(1919)に川本三が創業した。難しい漢字だが「せいぞう」と読む。三は真宗大谷派東本願寺名古屋別院の近辺で多くの土地をもつ庄屋の家の息子として、明治27年(1894)に生まれた。15歳でポンプ製造を行っている鉄工場に奉公して、消防ポンプの製造販売に携わった。学んだ技術を生かして、手押しポンプの製造販売を行う仕事を大池町で創業した。

 「これからは水道の時代だ。そうなると必要になるのはポンプだ」という先の先まで読んでの事業化だったというから、先見性があったといえる。

 当時のポンプは陶製・木製が主流だったが、これらは量産性もなく、輸送にも難があった。三はこれを一体鋳造の鋳鉄製に改良。「共柄ポンプ」の名で発売し、数々の特許を取得した。

 三には発明の才能があり、昭和7年(1932)には全国発明博覧会賞を受賞した。社業も順調に発展した。

 そこにやってきたのが太平洋戦争だった。会社の近辺は焼夷弾で焼き尽くされたが、同社は幸運にも焼け残った。そのため、戦後はすぐ復興できた。昭和23年には、新堀川沿いの西川端町で工場を新設した。昭和24年には株式会社川本製作所を設立して、法人化した。社長には三、専務には長男の修三が就任した。

 同社の幸運は、修三が兵役から戻ってきたことだった。修三は大正11年生まれで、昭和19年から20年の終戦まで陸軍で兵役に就いた。同時代の若者がどんどん戦死する中で、外地に出征することなく復員できたのは幸いだった。

 昭和27年には、三が急逝した。58歳という若さだった。修三は弱冠30歳だったが、急きょ社長に就任した。修三は、以来半世紀にわたって社長業を務めることになる。

 昭和29年に売り出したのは、我が国初の家庭用の電動ポンプで、常識を破る消費電力と低価格でヒット商品になった。

 大きな飛躍のバネになったのは、昭和41年に行った岡崎工場の建設だ。これを機に、ビルやマンションなどの設備用のポンプ市場を開拓するようになった。そこから売上高をグングン伸ばした。

 同社の営業スタイルは、代理店に頼らない直販方式だ。そして全国に120カ所の営業拠点をもち、ユーザーからの要望にすぐ対応できる態勢を整えているのが強みである。

 平成14年(2002)には、修三の娘婿の髙津悟氏が社長になっている。修三は社業の発展を見届けたうえで、15年に逝去した。髙津社長は「1社1業ということで、ポンプというニッチな市場に特化してきたことが良かった。創業者の残してくれた社是『信用第一』『品質本意』『旺盛なる責任』を大事に守っていきたい」と語っている。

 本社所在地は、名古屋市中区大須4‐11‐39である。

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発刊に寄せて

序文

大正元年(1912)

大正2年(1913)

大正3年(1914)

大正4年(1915)

大正5年(1916)

大正6年(1917)

大正7年(1918)

大正8年(1919)

アメリカが対日戦を想定したオレンジ計画を立案
その頃、日本は 秋山真之が死去。「米国と事を構えるな」と遺言
その頃、世界は 全責任をドイツに押し付けてベルサイユ条約調印
その頃、日本は 大戦中をもしのぐ好景気が到来したが…
その頃、豊田は 佐吉が再度の上海視察へ
<この年に誕生した会社>
「店はお客様のためにある」を信条に あかのれん
<この年に誕生した会社>
電球の傘にはじまり松下幸之助との縁も 富永電機
<この年に誕生した会社>
顧客のニーズに応えた堅実経営
ガラス問屋のウチダ
<この年に誕生した会社>
“水道の時代”を見越しポンプ市場を開拓 川本製作所
<この年に誕生した会社>
昔ながらのドブ板営業でIT時代を生き残った ワキタ商会

大正9年(1920)

大正10年(1921)

大正11年(1922)

大正12年(1923)

大正13年(1924)

大正14年(1925)

大正15年(1926)

昭和2年(1927)