親しみやすい庶民的な衣料品スーパー・あかのれんは、大正8年(1919)の創業だ。熱田区須賀町(現・地下鉄伝馬町駅の付近)で、伊藤藤三郎が呉服店を開業したのが始まりである。屋号の「あかのれん」がいつから採用されたのかは諸説あるとか。昭和元年(1926)に熱田区伝馬町に店を移したが、そこは東海道五十三次に知られた風情ある商店街だった。
大正14年に、藤三郎と妻きいとの間に、長女美代子が誕生した。この美代子こそ、夫英明と二人三脚で、今日のあかのれんを築いた最大の功労者となる人物である。
あかのれんは昭和18年、空襲で店と住居が全焼し、すべてを失った。伊藤家は、親類縁者を頼って、一宮市千秋に疎開した。
そして敗戦へ。伊藤家は、昭和21年に南区豊門町(現・内田橋)で店舗を開き、営業を再開した。昭和22年当時は、衣料品が入らなかったので、乾物・玩具・古着を売った。衣料品は配給制だった。だが、徐々に衣料品が出回るようになり、服地や呉服を売るようになった。
あかのれんは、昭和22年に美代子が婿として英明を迎えてから第2世代に移った。昭和25年には株式会社あかのれんを設立し、英明が社長に就任した。
昭和34年の伊勢湾台風では、店と住居が全滅するという危機に見舞われた。このピンチに際して、英明は取引先への支払いを優先することとし、一切滞らせなかった。自らが被災しているにもかかわらずである。英明は、商いは信用第一という信念をもっていたので、迷うことなくそう決断したが、それが信用をますます高めることになった。
あかのれんは、被災を克服して、昭和35年には、内田橋で当時としては画期的なセルフサービスを組み入れた店を開いた。
昭和40年代に入ると、流通革命が進展し、スーパーが台頭する時代に入る。あかのれんは、昭和42年に新瑞橋店を移転新築し、売り場面積1千坪の大型店をオープンした。
だが、このあたりで同社の悪戦苦闘の時代が始まる。規模を追求した統合の時代になるとの予測の中で、あかのれんは昭和45年、ユニーとの業務提携に踏み切った。だが、この提携はうまくいかず、逆に足踏み状態に陥ることになってしまった。この影響もあって英明は体調を壊してしまった。提携は昭和50年に解消になった。
昭和54年はちょうど創業60周年に当たり、その記念式典を開催し、挨拶状を取引先に送ったところだった。だが、英明の病状は悪化し、54年7月に逝去した。60歳だった。そこで美代子が社長になり、娘婿の山本誠一が専務に就任するという新体制が発足した。美代子は、さすがに商売人の娘だった。それ以降、どんどん店を出店して業績を伸ばした。
平成元年(1989)には、美代子が会長、山本誠一が社長、美代子の長男・享司氏が専務に就任というトップ交替を行った。さらに平成15年には、山本誠一(その後死去)が会長、享司氏が社長になる交替を行い、今日に至っている。
享司社長は積極出店を展開し、飛躍期に入っている。
美代子は平成23年8月21日に逝去した。86歳だった。喪主を務めた享司社長は次のようなお別れの言葉を残した。
「『自転車の荷台に反物を一杯に積んで、お店から5キロ以上離れたお得意さんを訪問、何とか一着お買い上げ戴き気分は上々、ところがその帰路に荷台から反物が落ちていたのに気付かず、慌てて戻り何度探しても1つも見つからぬまま、深夜になっても家に戻れずただ泣き崩れるばかりで、今まであんなに悲しいことはなかった』
母が晩年昔を思い出してよく口にしていた話です。戦時下に学業の傍らで家業を手伝う17歳の娘の辛く苦いこの体験だけはいくつになっても忘れることができなかったようです」
「あかのれんの母」と呼ばれた美代子の商人魂は、今も脈々と受け継がれている。
本社所在地は、名古屋市南区明治1‐4‐21である。
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